異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

2021年7月に読んだ本、SFセミナーも参加

 調子はまあまあ、といった感じです。
『夢の木坂分岐点』筒井康隆
 サラリーマンの主人公が、多重的な人生を夢経由で移行していき、全体がメタフィクション化する幻想文学作品。ただユングフロイトを背景にしたところやサラリーマンの生活や内面といったフォーマットが現在はあまり有効に作用していないような印象もうける。古い日本家屋の間取りの執拗な描写には全体の構造との関連があるようだし、心理劇の比重の大きさは俳優としての側面が反映されている気はする。様々な要素はよく構築されているに違いないのだが、すごく惹かれたとはいえない。ただ、筒井康隆メタフィクションに軸足を置くようになった過程には世代的に興味があり、有名作品は少しずつ読むだろうとは思う。
『廃墟ホテル』デイヴィッド・マレル
 廃墟に魅せられた好事家たちが、とあるいわくつきの巨大ホテルに潜入。しかしそのメンバーには真の目的を隠している者がいて…という話。本好きの間では評価の高い作家だが、作品を読むのは初めて。謎めいたホテルのオーナー、ホテルで起こった過去の不気味な事件など、じわじわ緊迫感の高まっていく流れを予想していたのだが、中盤から加速して怒涛の展開が待ち受けていた。なるほど技量の高い作家として評価されているだけあるなあ。創作の裏側を明かした、自身の解説も興味深く、初期の年探検家としてのホイットマンという視点があるのかと知ることができた。舞台のアズベリーパークといえば、ブルース・スプリングスティーンのデビュー作を連想するし、ロック関連的なセンスも感じられる。また迷宮のようなホテルは、コールハース『錯乱のニューヨーク』に登場する異様な娯楽施設のあったっ過去のニューヨークを連想させたり、細部もいろいろな要素から成っている印象の作品だ。
『NOVA8』(大森望編集)
 2012年7月刊行。長いこと積んでいたなあ。
「大卒ポンプ」北野勇作
 バチガルピ「第六ポンプ」のパロディ、ともいえないかな。まあ普段は見えない重要な役割を担うポンプ、ということで共通点はあるか。日常性とホラ話のセンスが良く楽しい。
「#銀の匙
「曠野にて」飛浩隆
 いずれも『自生の夢』で読んでいて、再読。前者はちょっとした導入のような作品だが、後者は短いながら文字をイメージに使った仮想空間の新たなアイディアを垣間見せる。やはり凄い作家だ。
「落としもの」松尾由美
 人間の落としものをめぐる会話から、作品の背景が明らかになる、比較的オーソドックスなタイプのSF
「人の身として思いつく限り、最高にどでかい望み」粕谷知世
 どこともつかない国の話。人の望みをかなえる神が人々の前に現れ、主人公の少年が巻き込まれていく。テーマは古典的で、目新しさはないが、ストレートな主人公の行動原理が駆動力になっていて面白かった。
「激辛戦国時代」青山智樹
 激辛が日本史に影響を与えた、というユーモア歴史もの。楽しい。
「噛み付き女」友成純一
 中年男の恐妻ホラー、というやや古めかしいフォーマットが、多様に解釈できる形式にアレンジしてあり現代的。
「00:00:00.01pm」片瀬二郎
 世界と時間がずれてしまう人物、というアイディアもまた古典的なものだが、残酷で狂気的な方向での適用というのは珍しくインパクトがある。
「雲のなかの悪魔」山田正紀
 テクニカルタームからイメージを膨らませるSFらしい作品だが、特に科学用語とかは本来の意味がどうかつい考えてしまい、昔に比べ楽しめなくなってしまったなあ。それにしてもオチは(いちおう文字の色を変えておきます)≪ビートルズ≫かな?
「オールトの天使」東浩紀
 最初のは読んだ気がするが、間は読んでいないのでわからないところがある。ただ思想家のSFにしてはオーソドックスなタイプSFで、創作のモチベーションはどの辺にあるのかなとは前回に続き思ってしまった。
『化石の城』山田正紀
 1976年刊行。舞台は5月革命時のパリ。カフカ『城』がメインアイディア。即物的に<城>が扱われるところにらしさ。『宝石泥棒』の時の名古屋SF読書会で、本人が封印した初期作品ということを知ったのだが、(正直なところ多少下世話な)好奇心から古書店で購入した。ただ読んだ感じでは封印の理由は、単純に技術的な側面が大きそう。のちの作品にみられるサスペンスフルな展開や娯楽要素の片鱗はあるが、主人公に魅力がない(いくら昔とはいえ自己中心的なところがある)上に、プロットもぎこちない。若い頃から評価・人気共に恵まれた著者にはさすがに広まって欲しくなかったか。それから、あとがきで青春期へのレクイエムとも書かれているから気恥ずかしさも加わっているのかもしれない。
SFセミナーに参加。
 そうそうこれも備忘録的に簡単に。オンラインイベントがSF関連でも増えていく中、例年GWに行われてきたSFセミナーも、時期がずれてオンライン開催。もちろん、フランクにプロやアマチュア問わずいろいろな方とやり取りをできるのが魅力で、それはなかなか難しい面もある。それでも普段なかなか入ってこない、中国SF情報とか最新のテクノロジーをめぐる問題など面白かった。ボランティアの方々の多大なる努力によるものだろう。感謝感謝である。

 さて最後に音楽本。
『渋谷音楽図鑑』牧村憲一
 <メモリの藻屑、記憶領域のゴミ>のフモさんとコメントのやり取りをしていて、そういえば渋谷の輸入盤屋には随分通ったなーといろいろ思い出した。80-90年代ぐらいのことである。当ブログ主は当時横浜から、渋谷にほど近い中高一貫校に遠距離通学をしていた。渋谷経由で帰宅する(しかも乗り換えだから渋谷でいったん電車を降りる)ので、当然本屋やレコード屋に寄るわけだ。たとえば輸入盤屋でいえば、タワーレコードの開店時に友人たちと行ったのも覚えている。1980年前後のことで、その後東京の大学に進学し、その旧友たちとも渋谷で飲み会をしたり、映画を観たり(偶然同じ映画を観ていて、終わってから気づいたこともあったな)、まあそれなりに渋谷の変遷を見てきたことにも気づいた。
 そんなわけで(長い前置き)、いろいろ検索してみたら、渋谷が歴史的に音楽の街であったこと、それも渋谷のエリア別に歴史があり、それを解説した比較的最近の本(2017年)があることを知り、早速読んでみたのがこの本。著者は音楽プロデューサーで、シュガーベイブのメンバーや竹内まりや加藤和彦細野晴臣フリッパーズギターと仕事をしてきた人物。ということで、いやー買ってから気がついたんだが、そうか渋谷系の本だったのか…(<そりゃそうだろ、先に気づけ)。とはいえ、基本的には日本のポピュラー音楽史を辿る、重要な情報を与えてくれる本である。新宿を中心とした文化の活気に後れを取っていた地域が、東急・西武の競争の中で、近い米軍施設の影響をはらみながら、変化していく様子が(地元で育った著者の体験も加わって)よくわかる。そこに渋谷という小さいエリアの中に、ライブハウスの歴史、出版社(ミュージックマガジン関連の人物とはっぴいえんどがこんなにもつながっていたとは)、ほど近い青山学院大学(および付属)というフィールドが培地となるなど、公園通り・道玄坂宮益坂などそれぞれの違った個性をともなった発展が繰り広げられる。あまり日本のロック(やその歴史)には明るくなかったので、大変面白かった(まあミュージックマガジンの紹介とかもあって、プレYMO細野晴臣とかはまあまあ聴いてきたが)。それから楽譜を入れての巻末の解説も、類書にはない試みで、良いと思う。
 しかし、なのだ。やはり、フリッパーズギターなどのいわゆる渋谷系は自分とは縁遠いものなのだなあという印象が強化されてしまった(これは小山田圭吾のいじめ問題とはまた別で、元々)。ン十年経って、全く今更で間抜けな話なのだが、渋谷系に対する認識は「あれ?オレの行ってた渋谷ってこんなにオシャレだったっけ?」というところから始まっていたことにようやく気づいた(<何だその今更)。スクエアな80年代中高生だった当ブログ主は、当時109にも行ったことはなく、もっぱらタワー、CISCOなどの輸入盤屋や本屋(別な場所にあって、大きかった大盛堂書店、撤退してしまった旭屋書店などなど)に出没するのみ。もちろん小遣いは限られているし、遠距離通学なので眺めるだけのことがほとんど。探しているのも(当時オシャレの対極とされた)ハードロックやメタルだった時期もあるわけで、90年代以降の記述にはなんかしっくりこないところがある。渋谷にはアングラメタルの店もあったぞ。そもそも、この本で欠けているのが、80年代後期の記述で(著者が前線から退いていた時期らしく、まあ仕方ないのだが)、そこが当ブログ主には重要時期だったので、なんとももどかしい。
 全体的に、これが正史だという視点になっていて、それこそ小山田圭吾問題の出現で、記述がちょっと浮き上がってしまった面もまた否定できない。また、はっぴいえんど中心の歴史形成にミュージックマガジンも大きく関与しきたのだなということもわかった(近田春夫が異を唱えたいのはその辺なのかな)。物事には多様な面があり、都市にもいろんな顔があるはずだ。小山田圭吾のダークサイドのように、渋谷にもダークサイドがある、というような単純な話をしたいわけではなく、そういったいろんな顔という意味では、もう一つ綺麗すぎる渋谷音楽史本なのではないかと思えてならない。

渋谷陽一について

 時事ネタはどうもあれこれ考えてしまうので、ブログに書くのは苦手で(反応がヴィヴィットなtwitterだと、もっとかもしれないが元気な時はたまに書いてたな)、極力避けている。
 が、いちおう記録しておいた方が良いかなと思い、書いてみる。
 渋谷陽一とその周辺が話題となっている。
 一つはロック・イン・ジャパンが開催中止となり、医師会への不満を表明した件(公式でいかに不満足な件であるか言及がある)。
ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2021

 もう一つは東京オリンピックパラリンピックのなんかの担当に選ばれていた小山田圭吾のいじめに関する問題。掲載されていたのがロッキング・オン・ジャパンで当時の編集長の謝罪文があるが、渋谷陽一は発行人ということになる。
ロッキング・オン・ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して (2021/07/18) 山崎洋一郎の「総編集長日記」 |音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 後者については五輪の是非はともかく、内容の酷さ(もちろんインタビュアーにも大きな責任がある)と立場のミスマッチの大きさから騒動になるのも仕方ないかなという印象だが、直接は渋谷陽一は関係しているとはいえないので、あまり掘り下げない。ちなみに、小山田圭吾フリッパーズギターについては(今からみると大した年齢差ではないのだが)、「下の世代の音楽」という印象がぬぐえず、なんというか(よく話題になるパクリとかそういう問題以前に)距離を感じていた。それなりに聴いていたが、日本の音楽のトレンドを把握する情報みたいな感じで聴いていた。まあこういう聴き方も不純っぽくてあまり大声ではいいづらいけど、正直に書いておく。
 さて前者の問題だが、当方は医療関係者であることをまず断っておく。
 それから、音楽ファンとしては、渋谷陽一vs中村とうようでいけば、中村とうよう派であり、あまり音楽評論家として評価していない人物である。ちなみに前に言及した時にはこんなことを書いていた。

funkenstein.hatenablog.com
 ロッキング・オンは(音楽情報入手が限られていた時代だから出来た事だろうが)、音楽をネタに自己を語るという、自己陶酔的な記事が多く、<ロック>のダメな部分が前面に出ていた。そのため、振り返っての資料的価値も低いというのも評価できない理由だ。ロックは抵抗の文化を背景に持っていて、パッションを重視するのは当然。またそれは間口を広くとるためにも重要(新参者が参加しやすくなる)だが、それが素養や技術の軽視になりがちなのが、自分には納得し難かった。
 そんな当ブログ主からみて、まず医療関係者としては、フェス中止でのコメントには医療現場への無理解に失望した。医師会というと、自らビジネスを切り開いてきた渋谷氏からみると、既得権益を持つエスタブリッシュメントにみえるのかもしれないが、現場を担当するような団体であり、一方そんなにメカニックにも機能はしていないところもある。おそらくドタバダでフェスのことを考え、問題点を洗い出すことになり、結果フェス主催者には急に厳しいことをいわれたという困惑につながったのだと想像される。医療現場は、特殊なので、どうしても日常のルールとかけ離れていることが多い。多くの場合、一般の方は様々な不満を感じつつも「よく分からないが、医療施設には特殊な事情があるのだろう」と、矛を収めているのではないかと思う。そういうことが、シビアなケースとして起こってしまうと、医療機関への不満めいた部分が漏れてしまう、というのが今回の渋谷氏のコメントだろう。しかしコロナ禍は前代未聞のこと。<普通の人たち>のためにあるのが<ロック>ならば、医療現場で前線に立っているのも<普通の人たち>。「医師会」というキイワードに引っ張られず、<ロック>の人ならば、そこも配慮したコメントが欲しかった。というのも、コロナ禍で医療関係者は現場への無理解に幾度もさらされているからである(twitterなどのSNS、マスコミなどでの<素朴>なあるいは<無邪気>な、実効性に乏しい御進言や御提案に数えきれないほどの失望を抱き続けた1年半余りである。元々誤解が発生しやすい業種なのだが)。
 一方、ポピュラー音楽ファンとしては、そこまで抵抗するのであれば医療対策も全て自前で用意して強行する覚悟はなかったのか、という気もした。抵抗の文化を売りにしながら、なんとなくズルい感じがした。
 というのが率直な感想なのだが、実は結論は少々曖昧なものとなる。
 そもそも自分がフェス参加などほとんどしたことがなく、近年は体力低下もあり、この件については当事者性があまり高くないという問題がある。関係ない人間は、当然中止には冷淡になる。そういった立場の人間の感想でしかないという問題。
 もう一つ、渋谷陽一という存在。上記の以前のブログ記事では客観を装って書いたが、よく考えるとそう単純に割り切れるものでもない。まだ自分が10代だった1980年代当時渋谷陽一はいわばメディアの寵児。雑誌だけでなく、ラジオの情報番組も持っていた。情報源が限られていた時代、活字媒体のみならず、ラジオ番組(しかも音楽番組だけでなくカルチャー全般の紹介番組も持っていた)でもお馴染みだった人物だ。10代前半だった当ブログ主、自分の感性と無関係とはいえない気がしてきた。
 たとえばプリンス。密室性だとか(I Will Die For Youへの言及など)歌詞のメッセージ性だとか立て続けに傑作をものにしていたスティーヴィー・ワンダーとの類似性とか、渋谷陽一から知ったのではなかったかと思い返す。そういった考え方のフォーマットから、ン十年の時を経た現在、ちゃんと脱却できたか(おそらく出来ていない)。また、自分が推薦すると売れないということで、自らを〝ロック墓掘り人"と呼ぶ、自虐の入った斜に構えたスタイル。ロックなど物事をどうとらえるか、を知らず知らずのうちに彼を手本にしていなかったか。それどころか、今でも自らの根にそれはある気がする。これについては自覚的である必要があると思う。
 そういうわけで上記の以前のブログのように、自己認識としては、ロックなどポピュラー音楽を聴くにあたって渋谷陽一より中村とうよう近田春夫の影響を受けた、ということになる。しかし実情はもっと微妙だ。実際には中村とうようミュージックマガジンを読みつつ、渋谷陽一のラジオも聴いていた(もちろんピーター・バラカンの影響も大きい。ポッパーズMTVのインパクトは大きかった)。兄の影響で高校生の頃からミュージックマガジンを読んでいたが、じゃがたらと同時に(ロックリスナーには常々評判の悪い)尾崎豊も好んで聴いたりしていた(近田春夫に怒られそうだ(苦笑)。
 そのことはもはや大昔の笑い話にしかならないかもしれないが、真面目な話、情報過多の世界で、たくさんの構成要素から現代人はできているのではないか。統一のわかりやすいイメージというのは幻のようなもので、実像ではないのではないかと思い至った。いわば細かいパッチワークのような人間たち。日本版『ニューロマンサー』(奥村靫正)の表紙のような。

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 さらに人間は時とともに変化していく。つまりパッチワークのような人間たちが時代とともにモーフィングしている感じ。そんな人々で社会ができているものだととらえた方がいいのかもしれないと考えたりする(はっきりしたオチはありません)。
 

ルパン三世の映画をいくつか観てみた

 今年はルパン三世アニメ化50周年とかで、WOWOWプラスでルパン三世のアニメをいろいろ放送している。
 そういえば評価の高い劇場映画の第一作、第二作を除けば観たことなかったよなー、と気づいた。
 とはいえ、劇場用とTVスペシャルを合わせると当然かなりの数に上り、とても観切れない(しかも観ようと思えばかなり観ること自体はできるのが現代の恐ろしさ)。
 なので、ランダムに(たしかWOWOWプラスじゃないのもあるはず)録画して観てみた。ちなみに感想は観た順ではなく時代順(備忘録なので)。
ルパン三世 バビロンの黄金伝説(1985)』(劇場映画)
 ルパン映画としては山田康雄の最後、というのことだが、その後もTVスペシャルでルパンをやっているのでその辺は特に感慨はない。コミカルなのはともかく、ところどころの描写に時代とのズレがあるね。謎解きは意外と豪快。なにはともあれ、メインキャラクターに普通の俳優やタレントが入っていてそれが質を低下させているのが問題(ちなみに塩沢ときの事ではない。キャラクター自体多少変なところがあるが、演者としては健闘している印象)。五右衛門が一目惚れしてしまうチンジャオは『燃えよ斬鉄剣』の桔梗をどことなく連想させる(こちらが原型的なキャラクターかも。あるいはもっと古くからあるのかな)。
ルパン三世 ヘミングウェイ・ペーパーの謎』(1990年)(TVスペシャル)
 出崎統監督(あしたのジョー、ガンバなどの名監督)でこれまたキャラが独特な顔つきで不二子が誰?となる。全体に軽妙で、旧世代の自分としてはある意味イメージ通りのルパン作品。
ルパン三世 ルパン暗殺指令』(1993)(TVスペシャル)
 検索してみると、そんなに評価は悪くないようだが、うーむ自分にはイマイチだったなあ。冒頭原子力潜水艦を奪う話は、さすがに操縦は無理ではないかということもあるが、全体にストーリーなどあまりにも既存の枠組みや声優の力頼みというマンネリ感が。リフレッシュが元々必要だったんだろうなあという印象。それからクライマックスのところは911および311前なのだなという感じ。今ではあれで盛り上がることはないだろうね。あと、キャラクターデザインの江口寿志という江口寿史ではない人がいることを知る。
ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』(1994) (TVスペシャル)
 ルパン暗殺指令より後にこれを観たんだが、この作品の方がより荒唐無稽なんだけどこっちは別に気にならないんだよなあ。むしろこっちの方が「正しく」主要キャラクターたちを継承しているから問題なく思えていたりするのかもな。ルパン三世の長年のファンはどういう風に楽しんでいるんだろう?1995年に亡くなった山田康雄のルパン遺作となる作品。
ルパン三世 ワルサーP38』(1997年)(TVスペシャル)
 栗貫ルパン、まだ慣れないせいか抑え気味かなあ。アクション中心、話はまあいつものといった感じかな。
ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト』(2002年)(TVスペシャル)
 主要キャラクターの最初の出会いが描かれるという、ググると批判があり、それもわかるが、なかなかいい企画だと思う。ちょっと考えた感じのオチも個人的には嫌いじゃない。コロンボでいえば「かみさんよ、安らかに」。
ルパン三世 お宝返却大作戦!!』(2003)(TVスペシャル)
 新味はないが、アイディアや展開は気が利いてるし、シリーズの楽しさが良く出ている作品。栗貫もキャリアを経て余裕が感じられる。
ルパン三世vs名探偵コナン』(2009年) (TVスペシャル)
 コナンに関してはちゃんと観たことがない疎さなのだが、これとTHE MOVIE既に10年ほど前なのか。THE MOVIEの方をうっかり先に観てしまった。アニメ的な飛躍がストーリーをうまく盛り上げているし、二つのシリーズの融合も自然。例えばルパンがコナンに自己紹介するところから音楽とかの流れも気持ちいいテンポだったり、峰不二子がカッコよかったし。とにかく全体によく出来ていて面白かった。さらにカリオストロの城との関連も連想させるファンサービスもあるのも巧い。
ルパン三世vs名探偵コナン THE MOVIE』(2013年)(劇場映画)
 そういうわけで、うっかり上記の2009年の「ルパン三世vs名探偵コナン」と順番逆に観てしまったので、ちょっとわからないところもあった。それでも、それぞれのキャラクター総出の賑やかさが楽しく面白かった。次元がコナンにパパといわれるところがツボ。中盤出てくるバーのマスターがトニー・レヴィンで笑った。

 で、まとめて観た感想は<ルパン三世>というフォーマットの偉大さ。絵柄やテイストが違っても、メインのキャラクターたちにカッコいい見せ場があれば、観客は<ルパン三世>の世界を楽しむことができるのだ。これはもちろん原作者の凄さであり、TVアニメのスタッフ(キャラクターと一体となってキャリアを送った声優陣たちの貢献度は熱心なファンではない自分にもわかる)らの築き上げてきたいわば地盤の固さあるいは強さといったものに負うところが大きいと思う。
 

国書刊行会《未来の文学》が完結

 国書刊行会未来の文学》がついに完結。
 フェアのやっているジュンク堂書店藤沢店に行って、冊子を入手した。

 最初の冊子には第1回配本ジーン・ウルフケルベロス第五の首』 2004年夏刊行予定とある。(実際に刊行されたのは2004年7月20日
 『ケルベロス第五の首』といえばしゅのー先生(殊能将之)である。しゅのー先生ホームページのThe Reading Diary of Mercy Snowをまとめた『殊能将之読書日記2000-2009』を確認してみると、翻訳前にThe Fifth Head of Cerberusを詳細に紹介しているのが2000年6/24。さらに翻訳に近づいたと思われる、訳者柳下毅一郎氏の<文藝>連載「オレにやらせろ」(自身が翻訳したい本を紹介する連載)への言及が2002年7/19(2002年秋号の回でThe Fifth Head of Cerberusが紹介されている)。そして《未来の文学》の名が出てくる最初が(たぶん)2003年6/11。
 当ブログ主が前ブログを開始したのが2006年5月で、その時の感想が記録されていないので、しゅのー先生の力を借りてしまったが、相当興奮した覚えがある。
 とりあえず、全冊子並べてみた。

 刊行時(直前)の冊子には

 失われたSFを求めて―
ウルフの超傑作からワトソンの熱いデビュー作、
ディッシュの日本オリジナルベスト、
そして待望のスタージョンラファティ長篇作まで。
 60-70年代の傑作SFを厳選した
SFファン待望の夢のコレクション!

 とある。ここでのポイントは60-70年代というキイワード。ニューウェーヴSFに影響を受けた自分にとっての原点ともいえる時代だ。そんな自分の土台を再確認させてくれるような企画であった。名作揃い、というストレートにいうのには抵抗がある。何せ、一筋縄ではいかない作家の一癖も二癖もある、<変>な作品ばかりが並ぶのだ。しかしそれが読者を惹きつけたのは間違いない。背景にあるのは間違いなくニューウェーヴSFだ。ラインナップにはもちろんニューウェーヴではない作家も顔を揃えている。しかしディッシュ、ディレイニー(それぞれ2長篇)に、エリスンニューウェーヴSF系作家の多く収められた『ベータ2のバラッド』。さらにウルフやラファティといえば、デーモン・ナイトのアンソロジー「オービット」を連想させ、これもニューウェーヴSF系作家の名前が目立つシリーズである(「オービット」についてはちゃんと把握していないのだが、とにかく12年20巻出ている持続力がまずすごいな)。
 そもそもニューウェーヴは<変>なのだ。偉大な予言者であったことが次々に証明されてきた、あのJ・G・バラードだって、科学の進歩ばかりに目を奪われていた時代に、真のSFは「健忘症をわずらう男が浜辺に寝ころび、錆びた自転車をながめながら、両者の関係の究極にある本質をつきとめようとする」物語だと宣言するのは、やはり<変>だと思う。<変>というのがふさわしくなければ、オルタナティヴといってもいいかもしれない。普通の見方では見えないものを、違う観点からとらえていこうとする試み。
 それにしても、あらためて全作品振り返ってみると、やはり<変>な並びである。もちろんストレートに名作というものもあるが、読みやすいとはいえないもの評価の難しいもののちらほら。刊行から17年。なかなか本を売るのが難しい時代に冒険的な企画だったと思うが、だからこそ支持され、続いたのだろう。出版界への波及も大きかったと思う。ジーン・ウルフラファティの再評価につながったし、例えば竹書房文庫でハーネスやビショップの幻の作品が翻訳されたりするのも《未来の文学》がなければ、なかったのではないだろうか。
 さて、読んだのは19作品中16。所持して未読2、未所持1である。どれかは言及しない(苦笑)が、遅読の当ブログ主としては、読破率がかなり高い叢書である。そして、この<変>な叢書に心を奪われ(同時に自分の原点とクロスするような作品群が商業出版される事に心強くなり)、トークイベントに出かけ、同好の士と交流を深め、調子に乗ってブログを始め、ひょんなことから雑誌に文章を書かせてもらったり、この17年いろいろなことがあった。そして今、国書刊行会に感謝しつつ、続きの叢書への期待もしているのが正直なところなのだ(笑)。


 

 

丸屋九兵衛さんオンラインイベント、6月は万物評論家のマイノリティ&多様性月間

丸屋九兵衛さんオンラインイベント(2021年6月)いつものことだが備忘録的に。
・【Q-B-CONTINUED vol.59】種の保存スペシャル! 道徳的に認められないLGBTQで振り返る世界史と日本史
 丸屋さんの専門分野((?)だけに毎度動物の生態学や歴史いろいろ新しい情報が入る。そろそろそういった性的な多様性もよりあたり前に認識できる考え方に移行する必要性があるよね(まあ残念ながら日本は遅れ居ているのだが)。ソウヤーのネアンデルタールものの言及もちょっとだけあったね。読んでみようかな。
・【Soul Food Assassins vol.21】黒人音楽月間スペシャル! ブラック・ミュージックの流れを変えた偉人たちと、その瞬間
 「ガンダム主題歌のかけ声はシャフトが起源」説には笑った。『エレクトロ・ヴォイス』は積んでるんだよなー、読まなきゃ。
・【Q-B-CONTINUED vol.60】FAST, FURIOUS, FOREVER! 『ジェットブレイク』全米公開記念! ワイルド・スピードの20年
 ワイルド・スピード20周年か。とはいえ丸屋トークで気になってからなので数作観てるけど、ここ数年。とにかくヴィン・ディーゼルの人となりが伝わってくるトークだった。なんとか追いつかないとなあ。
・【Soul Food Assassins vol.22】映画と音楽が出会うとき。ソウル/R&B/ヒップホップ・ムーヴィーの世界
 なんでも深堀りが過ぎる(そこが取り柄)丸屋氏だが、普通の伝記映画ではなく、架空のミュージシャンを扱った「ソウル/R&B/ヒップホップ・ムーヴィー」ときたか!いやーなかなか簡単に観られない映画が多いのが残念。実はいわゆるブラウザ・ムーヴィーに注目したのはこれまた丸屋さんのトークを聞き出してからで、それこそ伝記映画ぐらいしか観ていない。これからでも押さえたいところである。Good to Goの主演がアート・ガーファンクルだったのは(映画は観てなかったこともあり)忘れてたなあ。