異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。

渋谷陽一について

 時事ネタはどうもあれこれ考えてしまうので、ブログに書くのは苦手で(反応がヴィヴィットなtwitterだと、もっとかもしれないが元気な時はたまに書いてたな)、極力避けている。
 が、いちおう記録しておいた方が良いかなと思い、書いてみる。
 渋谷陽一とその周辺が話題となっている。
 一つはロック・イン・ジャパンが開催中止となり、医師会への不満を表明した件(公式でいかに不満足な件であるか言及がある)。
ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2021

 もう一つは東京オリンピックパラリンピックのなんかの担当に選ばれていた小山田圭吾のいじめに関する問題。掲載されていたのがロッキング・オン・ジャパンで当時の編集長の謝罪文があるが、渋谷陽一は発行人ということになる。
ロッキング・オン・ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して (2021/07/18) 山崎洋一郎の「総編集長日記」 |音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム)

 後者については五輪の是非はともかく、内容の酷さ(もちろんインタビュアーにも大きな責任がある)と立場のミスマッチの大きさから騒動になるのも仕方ないかなという印象だが、直接は渋谷陽一は関係しているとはいえないので、あまり掘り下げない。ちなみに、小山田圭吾フリッパーズギターについては(今からみると大した年齢差ではないのだが)、「下の世代の音楽」という印象がぬぐえず、なんというか(よく話題になるパクリとかそういう問題以前に)距離を感じていた。それなりに聴いていたが、日本の音楽のトレンドを把握する情報みたいな感じで聴いていた。まあこういう聴き方も不純っぽくてあまり大声ではいいづらいけど、正直に書いておく。
 さて前者の問題だが、当方は医療関係者であることをまず断っておく。
 それから、音楽ファンとしては、渋谷陽一vs中村とうようでいけば、中村とうよう派であり、あまり音楽評論家として評価していない人物である。ちなみに前に言及した時にはこんなことを書いていた。

funkenstein.hatenablog.com
 ロッキング・オンは(音楽情報入手が限られていた時代だから出来た事だろうが)、音楽をネタに自己を語るという、自己陶酔的な記事が多く、<ロック>のダメな部分が前面に出ていた。そのため、振り返っての資料的価値も低いというのも評価できない理由だ。ロックは抵抗の文化を背景に持っていて、パッションを重視するのは当然。またそれは間口を広くとるためにも重要(新参者が参加しやすくなる)だが、それが素養や技術の軽視になりがちなのが、自分には納得し難かった。
 そんな当ブログ主からみて、まず医療関係者としては、フェス中止でのコメントには医療現場への無理解に失望した。医師会というと、自らビジネスを切り開いてきた渋谷氏からみると、既得権益を持つエスタブリッシュメントにみえるのかもしれないが、現場を担当するような団体であり、一方そんなにメカニックにも機能はしていないところもある。おそらくドタバダでフェスのことを考え、問題点を洗い出すことになり、結果フェス主催者には急に厳しいことをいわれたという困惑につながったのだと想像される。医療現場は、特殊なので、どうしても日常のルールとかけ離れていることが多い。多くの場合、一般の方は様々な不満を感じつつも「よく分からないが、医療施設には特殊な事情があるのだろう」と、矛を収めているのではないかと思う。そういうことが、シビアなケースとして起こってしまうと、医療機関への不満めいた部分が漏れてしまう、というのが今回の渋谷氏のコメントだろう。しかしコロナ禍は前代未聞のこと。<普通の人たち>のためにあるのが<ロック>ならば、医療現場で前線に立っているのも<普通の人たち>。「医師会」というキイワードに引っ張られず、<ロック>の人ならば、そこも配慮したコメントが欲しかった。というのも、コロナ禍で医療関係者は現場への無理解に幾度もさらされているからである(twitterなどのSNS、マスコミなどでの<素朴>なあるいは<無邪気>な、実効性に乏しい御進言や御提案に数えきれないほどの失望を抱き続けた1年半余りである。元々誤解が発生しやすい業種なのだが)。
 一方、ポピュラー音楽ファンとしては、そこまで抵抗するのであれば医療対策も全て自前で用意して強行する覚悟はなかったのか、という気もした。抵抗の文化を売りにしながら、なんとなくズルい感じがした。
 というのが率直な感想なのだが、実は結論は少々曖昧なものとなる。
 そもそも自分がフェス参加などほとんどしたことがなく、近年は体力低下もあり、この件については当事者性があまり高くないという問題がある。関係ない人間は、当然中止には冷淡になる。そういった立場の人間の感想でしかないという問題。
 もう一つ、渋谷陽一という存在。上記の以前のブログ記事では客観を装って書いたが、よく考えるとそう単純に割り切れるものでもない。まだ自分が10代だった1980年代当時渋谷陽一はいわばメディアの寵児。雑誌だけでなく、ラジオの情報番組も持っていた。情報源が限られていた時代、活字媒体のみならず、ラジオ番組(しかも音楽番組だけでなくカルチャー全般の紹介番組も持っていた)でもお馴染みだった人物だ。10代前半だった当ブログ主、自分の感性と無関係とはいえない気がしてきた。
 たとえばプリンス。密室性だとか(I Will Die For Youへの言及など)歌詞のメッセージ性だとか立て続けに傑作をものにしていたスティーヴィー・ワンダーとの類似性とか、渋谷陽一から知ったのではなかったかと思い返す。そういった考え方のフォーマットから、ン十年の時を経た現在、ちゃんと脱却できたか(おそらく出来ていない)。また、自分が推薦すると売れないということで、自らを〝ロック墓掘り人"と呼ぶ、自虐の入った斜に構えたスタイル。ロックなど物事をどうとらえるか、を知らず知らずのうちに彼を手本にしていなかったか。それどころか、今でも自らの根にそれはある気がする。これについては自覚的である必要があると思う。
 そういうわけで上記の以前のブログのように、自己認識としては、ロックなどポピュラー音楽を聴くにあたって渋谷陽一より中村とうよう近田春夫の影響を受けた、ということになる。しかし実情はもっと微妙だ。実際には中村とうようミュージックマガジンを読みつつ、渋谷陽一のラジオも聴いていた(もちろんピーター・バラカンの影響も大きい。ポッパーズMTVのインパクトは大きかった)。兄の影響で高校生の頃からミュージックマガジンを読んでいたが、じゃがたらと同時に(ロックリスナーには常々評判の悪い)尾崎豊も好んで聴いたりしていた(近田春夫に怒られそうだ(苦笑)。
 そのことはもはや大昔の笑い話にしかならないかもしれないが、真面目な話、情報過多の世界で、たくさんの構成要素から現代人はできているのではないか。統一のわかりやすいイメージというのは幻のようなもので、実像ではないのではないかと思い至った。いわば細かいパッチワークのような人間たち。日本版『ニューロマンサー』(奥村靫正)の表紙のような。

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 さらに人間は時とともに変化していく。つまりパッチワークのような人間たちが時代とともにモーフィングしている感じ。そんな人々で社会ができているものだととらえた方がいいのかもしれないと考えたりする(はっきりしたオチはありません)。