異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

<シミルボン>再投稿 コラム「敵と味方をわけるもの」

 <シミルボン再投稿シリーズですが、<シミルボン>では投稿を盛んにするためにお題の提供も定期的に行われていました。数は少ないのですが、そうした企画に合わせて書いたものもありました。以下のコラムのお題は「#おしえて、せんそう」で、戦争についてのコラムやレビューの募集でした。(以下本文)
 戦争とは敵味方に分かれて勝利者を決めるものだろう。しかしその敵と味方の区別、はたして容易につくのだろうか。いったい何をもって判断するのか。国籍?人種?いきなり銃を向けられたら確かめる余裕などない。あらゆることが混乱状況におかれる戦場で瞬時に敵味方を判別することができるのだろうか。
 向井豊昭エスペラント語から翻訳したハンガリー作家ベンチク・ヴィルモシュの作品「シャーネックの死」(『向井豊昭傑作集 飛ぶくしゃみ』収録)は敵味方を超えた心の動きを見せたばかりに命を奪われる青年が主人公である。あるいはフランク・オコナーの作品「国賓」(『フランク・オコナー短篇集』収録)では、捕虜と見張りの間に生まれた奇妙な連帯感が捕虜の処分決定により無残に引き裂かれる様子が描かれる。敵味方の差を認識できない者には容赦ない運命が待ち受ける、戦場はそういった非人間的な場所なのである。

 さて技術が発達した未来において敵味方の区別は容易になるのだろうか。米国の俊英SF作家ケン・リュウの「ループのなかで」(『母の記憶に』収録)は兵器の開発者カイラが主人公である。穏やかな日常を送りながらドローンによる遠隔攻撃を行う兵士は日常生活と任務の落差により精神を病むケースがあることが既に現実の社会でも問題となっているが、カイラはそんな父親をみて育った人物である。攻撃の決断そのものが人間にとって負担となるために、その重責から開放し機械に代わってもらう技術の開発に取り組むのだ。しかしもちろん問題はある。作中でカイラはいう「誰が敵か判断するのはいつも簡単というわけじゃないわ」。結局は標的が大人の男だったら加点、あるいは子どもなら減点、というようにアルゴリズムを洗練させ「より高い水準を目指せる戦争」を目指すしかない。敵味方の数値化のはてに作品が最後にたどり着く寒々しい光景は読む者の中にずしりと重いものを残す。
 未来の戦場における機械の怖ろしさといえばフィリップ・K・ディックが描き続けたモチーフでもある。「ジョンの世界」(『変種第二号』収録)ではクローと呼ばれる兵器として創造されたロボットが登場する。人類を脅かしたクローとの戦争が終り、クロー自体の復元も困難となったため時間旅行で過去にもどってその技術を得ようという計画が持ち上がり、話が進行するうちにクローの歴史が明らかになっていくという作品である。登場するガジェットのなかでなんといってもおぞましいのが傷痍兵型ロボットである。一見破損したようにみえる片脚だけのロボットは最初からそのように作られている。「(前略)人間の歩哨をあざむいて掩蔽壕へ侵入するために作られたんだ」と。ここでは人間の同情心が弱点として実に効率的に利用されている。「変種第二号」(『変種第二号』収録)でもクローは変種第一号として傷痍兵型は登場する。タイムスリップや未来予知をからめいろいろな要素に富んだ1954年発表の「ジョンの世界」に先立つ1953年発表の「変種第二号」は舞台が戦場のみに限定されているが、より新ピルで緊迫感と切れ味のよさではこちらに軍配が上がる印象だ。また前者で人類の未来のために奔走する主人公たちに比べると後者では機械の戦略に主人公たちは右往左往するばかりで、こちらの方がよりディックらしいともいえるかもしれない。
 ようやく戦争が終結しても問題は終わらない。伊藤計劃の傑作「The Indifference Engine」(『The Indifference Engine』収録)の主人公<ぼく>は、ある架空のアフリカの国で隣接して暮らしていた他民族に対し大量虐殺を行った過激な政治集団の少年兵である。おびただしい血が流され戦争は終結、オランダが調停を行いアメリカ軍が駐留している。社会に残った傷跡を修復するため、敵を敵と認識できなくなる処置を脳に行うことにより「みなさんをかならず憎しみから解放してくれるでしょう」。それが公平化機関(インディファレンス・エンジン)と呼ばれるシステムで、敵味方という差異を社会から消してしまおうというわけだ。しかしことは簡単に運ばない。<ぼく>たち少年兵の判断を奪って戦争を叩き込んだ大人たちが平和になったから全て忘れろといっても、それは通じない話なのだ。<ぼく>はあらゆるところから逃げ出し、ついには自らの力で解放される。クライマックスにおいて主人公のたどり着いた荒涼とした世界には抑圧された人々の叫びが聞こえ圧倒される。
 この作品の土台となった1994年のルワンダの大虐殺では、平和に共存していた二つの民族が植民地化政策によって対立が発生しついには普通の人々が普通の人々を大量に殺害する事態にいたった。予見されたにも関わらず国際社会の無視などによって阻止できなかった今なお愚かしい人類の姿が裏書きされたような経緯はフィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』に詳しい。
 遠く離れた地のこの虐殺を遠い出来事と思えないのはなぜだろうか。最終的にメディアにあおられためらいもなく虐殺を遂行した人々の姿は、感情的な言葉が飛び交うネット環境を思うに、どんな国で同様な悲劇が起こらないとも限らない。目の前にいる敵は本当に敵なのか。その背後にあるものを見定めることがより重要なのかもしれない。(2017年7月6日)