異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

<シミルボン>再投稿 連載「放克犬のおすすめポピュラー音楽本」 第11回『ルー・リード ワイルド・サイドを歩け』

ルー・リードの背景や1990年初頭までの歩みを丁寧に追った伝記本~
 ふと思い立ってルー・リードの伝記を読んでみた。
 近年もう一度昔のロックを聴き直そうとぼんやり思っていたところもあるのだが、一つ大きな動機としてはThe CarsのリーダーRick Ocasekの死である。
 80年代に爆発的に売れRock and Roll Hall of Fameに入ったThe Carsは何の問題もなく評価が定着したバンドとの印象があるが、その中心人物Rick Ocasek自身の傑作ソロアルバムThis Side of Paradiseはあまり言及されることがなく配信はiTunesにはない(Spotifyは?)。
デビューソロのBeatitudeもようやく再発CDが今年に入って出たくらいで長 らく出ていなかった(今検索していてようやく出たことを知った。買わなくては)。
知名度、楽曲のポップさということでは問題ないようなミュージシャン(と個人的には思っているのだが)にしては動きが鈍い。
 こうやって昔のミュージシャンは忘却されてしまうのだなあと気づいた、ものぐさでオッサンな自分もさすがに寂しくなり、やはり聴いてきた人間が自発的に追いかけないといけないのだなという気になってきた。
 で、検索をしていたら、ある日、とあるブログ記事から上記のRickのデビューアルバムBeatitudeがbeatnikの用語だということを知る。
 beatnikはロックの源流の一つともいえる文学運動で、ロックの聴き始めの中学生時代から興味を持っているのだが、なかなか運動のセンスが理解できず、(おおげさにいえば)ブログ主の永遠の課題である。
 しかしここで長年好きなRickと結びついておお!となったのだ。となると、かなりポップ寄りだしほんの少し時代をさかのぼることになるが、東海岸のパンク・ニューウェーヴシーンが気になる(そういえばRickは1944年生まれで他のメンバーより年長、世代的にはぴったりである)。
 NYのパンク・ニューウェーヴシーンは詩人あるいは詩人志向のミュージシャンが多くbeatnikの影響が色濃い。
 さらにその先達となるThe Velvet UndergroundそしてLou Reedという存在が(これまでややよくわからないままでいた分に余計)気になってきた。
特にLou Reedは詩人としての側面が強いので人的交流とか含め、伝記を読んでみたくなったのだ。
 さて前置きが長くなってしまったが、読んだ伝記は『ワイルド・サイドを歩け』(LOU REED : Growing Up In Public)ピーター・ドゲット(Peter Dogget)(邦題が同じ別な伝記がある様子だが、それはどういう内容か未確認です)。
 で、結果これが当たり、大変面白かった。
The Velvet Undergroundの音楽的柱であったJ.Caleの背景も(短い記載だが)わかるし(The Velvet Undergroundには意外とトラッドっぽい曲があって、それはサウス・ウェールズ出身のJ.Caleのセンスなのではないだろうか)、ストリートのロッカーというイメージとはやや異なるLou Reedの少年~若年期の姿(抑圧されていたようだが、中流家庭で大学も卒業している)も細かく記述されている。
 基本的に本稿の書き手はスクエアな人間だったので、こうした破滅的な表現をするミュージシャンはどちらかというと敬遠しがち(ああそんなロックファンなんて、ちょっと恥ずかしいけど正直にいうよ!)で、The Velvet UndergroundLou Reedをあまり聴いてこなかった当ブログ主にはむしろ親しみを感じさせるものであった。
 大きな読みどころはThe Velvet Undergroundの内部でのハードな人間関係、またWarhol、Bowieなどなどとのコラボレーションそしてすれ違いといったあたりだろう。
 1991年執筆で1992年翻訳なので、そこまでしか出てこないわけだが、80年代の記載も当時の音楽で育った身としては、意外にノリノリだった80年代だったLouの姿がちょっと可笑しいし、他にも80年代の情報はいろいろと楽しめる。当時随分ミュージック・ビデオ(当初はプロモーションビデオといっていた)観たつもりだったが、Louのものはすぐには思い出せない。
 が、検索して少し思い出してきた。
 よくMTVなどでやっていたのは強面のカリスマという印象と違うユーモアのあるもので、そういえばそのギャップもリスナーとしてイメージを集約できず聴くのが後回しになっていたこともあった気がする。
 Lou自身、本書を読むとなかなか言動においても複雑な人で、ユダヤ系ゆえのユダヤにキツい物言い(しかもユーモアに欠く)やI Wanna Be Blackといった歌詞については、現在ではややナイーヴなものととられても仕方ないだろう。
 本書の読みどころにLouのバイセクシャルとしての個人史もあり、今日的な問題のあれこれを考えさせる。
 70年代中盤に一時Rachelというトランスジェンダーとパートナーになり、その結果でスランプから脱するという話も記されている。ただネットを検索するとRachel自身は専門的な職を持った人物ではなく(発言力は弱く)、性転換手術を希望していたRachelに賛成せず、大きな力を持つLouが抑圧していたのではないかという文脈でも解釈されるという記事もある(今年の記事)。
 ただこれも難しい問題で、アルバムに二人の写真をちりばめ、非公式とはいえ結婚パーティーを開いたLouに関係を隠匿しようという意図は感じられず、まだ70年代であることを考えると性の考え方としては進歩的な人物だということにはなるのではないか(今日的に見直すこと自体は構わないと思うが)。
 他に細かな部分でも発見がいろいろあった。活動範囲は思ったより広く、Kissに楽曲を提供していたのは知らなかった(アルバム"The Elder"、ただ知らなかったというよりもあまり興味がなくスルーしていたのかもしれない)。
 あと1983年にRock & Ruleというアニメーション映画にLou Reedが曲を提供してるんだが、Cheap Trickも3曲提供してる。随分後の2010年に日本で公開され、blue rayとかも出ている(かなり高騰してしまっているが)。
こちらの方は全く記憶がなく、それが個人的に意外なのは、当時低迷してたものの個人的にCheap Trickに大ハマりていた時期で、同じく彼らが曲を提供していたアニメ映画のカルト作Heavy Metalだって公開時に観たし、彼らのどんな曲でも聴きたくてあんまり興味のないファミリー映画のUp the Creekのサントラまで買ってたのに気づかなかったからである。
理由としては当時基本的に日本の雑誌を情報源にしてたところに弱さがあったのかもしれないなとも思ったりする。
 インターネットの時代と違い情報源が限られていて(まあもちろん熱心なファンはしっかり把握していたのだろうけど)。情報が偏っていたのだろう。
 そういう時期の情報はアップデートしないといけないなという気がする(一方で逆もあるかもしれず、つまり現代では検索すれば簡単にわかることも当時のファンは知らなかったことは十分考えられ、知っていたとして歴史を塗り替えるのもよくないだろう)。
 とにかく斜に構えたようなスタイルから受ける印象とは随分異なり、(一時的なスランプはあるものの)常に創作意欲が衰えず、作品を発表していく姿が全編にある。
 それはロックの変遷をたどる上で貴重な役割を果たす存在であり続けるだろう。
 で最後に。ここでなぜか山野浩一が登場する。
 実はこの本を読んで、J.Caleの項を読んでいて、クラシックや現代音楽に明るくないので「12音技法」という新たな作曲技法が20世紀に登場し、その流れにある弟子筋に彼があたることが記されている。
 もちろん具体的にはyoutubeの動画を見たりしてもわからないのだが、それまでとは異なる違和感のがある音作りになっていることは何となく感じるので、かなり画期的なことなのだろうなというおぼろげながら伝わってくる。
 で、他のことでたまたま同じタイミングで読んだ季刊NW-SF(1982年12月 第18号)の評論連載<小説世界の小説ー7>「現実としての未来世界ーハインラインとウイルヘルム」に、十二音技法のことが載っていた。
山野浩一はジャズにも明るいので、当然そうした用語にも明るくて全く不思議はないのだが、実に的確な文脈で使われているので驚かされたのだ。
 以下引用しよう。
「(前略)小説世界のプロセスには抽象絵画や十二音階音楽に似たところがある。いずれも二十世紀の文明と世界観と精神活動によって生み出されたもので、素朴な主観から離れて世界を観ようとし、形式に縛られない自由な表現を獲得しようとしている。人物に縛られてきた小説が、自由を求めてみじから新しい世界を創造するようになったわけである。(以下略)」
 つまり20世紀になり、旧来の音楽表現では足りなくなってきたために新しい技法が生まれたように、小説にも新しい技法や視点が必要になったのではないかということを非常に明快に提示しているのだ。
 本稿の書き手が21世紀にふむふむと感じていることが30年近く前に非常にわかりやすく書かれているのだ。
 さすが山野浩一である。