第6回シミルボンコラム大賞のテーマは「宮内悠介を読む」。
さて落選の理由を推察。
宮内悠介については、こちらが世代が上であることもあり、その切実さをこちらがとらえきれていないのかもしれず、そこでちゃんと読み切れていないところがあったのかもしれない。
また再チャレンジしないとなあ。(以下本文)
世界最大の実験国家アメリカを舞台に人間と音楽の関係を問う『アメリカ最後の実験』
5つのアナログゲームをテーマにした6編のオムニバス長編『盤上の夜』をはじめ、奇抜な発想とたぐいまれな技巧と切迫した現代社会を実況的に切り取る鋭い視座をあわせ持つ新世代の旗手宮内悠介は次々とユニークな作品で文芸の分野を驚かし続けてきた。
特に非日常的なアイディアが目立ちやすいSFの分野での活躍が目立つため、2016年刊行著者4冊目にあたる『アメリカ最後の実験』は宮内の作品群の中では一見やや大人し目に映るかもしれない。しかしその特質がよく現れた傑作だ。
主人公脩はミュージシャン。
アメリカ西海岸のジャズの名門<グレッグ音楽院>に入学するための試験を受けるために渡米をする。
彼の渡米にはもう一つの目的があった。
自分と母を棄て<グレッグ音楽院>に合格したのちに失踪した父親を探し出すことだ。
脩は試験を通じてさまざまな背景を持つ人々と知り合う。
一方同時期にアメリカでは「アメリカ最初の実験」というメッセージの残された殺人事件を皮切りに第二、第三と題された殺人事件がウェブで拡散され目的のないまま不気味な連鎖を続け、人々を不安に陥れていた。
さらにはアメリカの行く末を追う狂信的な資本家ヨハン・シュリンクの動向も追われていく。
宮内作品で印象的なのは登場人物たちの抱える苦悩の深さだ。
『盤上の夜』ではぎりぎりの状態で勝負の世界で生きる人間の苦闘が見事に描き出されていたし、『ヨハネスブルグの天使たち』には戦時下など追い込まれた状況の主人公たちが並び、『カブールの園』の登場人物たちは自身のルーツと生活しなければならない社会とのギャップに悩み、『あとは野となれ大和撫子』の国は存続の危機にさらされている。
『アメリカ最後の実験』では“空虚さ”が登場人物たちの心に影を落とす。
誰もが自らは“本物”ではないのではないかという不安を抱えている。
脩は優れたピアニストだが、父の失踪で精神を病んだ母親のを慰めようとするうちにら母の感情を完全にコントロールできる演奏技法を把握してしまい、自らの演奏が本来あるべき音楽の深遠とは程遠い空虚なものと自認するようになっている。
脩の父である俊一もまた倒錯的な空虚さを内面に抱えている。
彼は「音楽は、無力でなければならないのだ」と考える。
小さいころにアラビアンナイトを千一夜目に語り部シャハラザードが首を刎ねられたと勘違いして育った彼は、演奏で生き存えることは役目を終えたら最後に命を奪われるような存在だと規定した。
シャハラザードが王と結婚するハッピーエンドは彼にとっては裏切りのような結末と感じられたのだ。
試験で脩と同様に対戦相手となるリロイも自分が偽物だと思っている。
ミュージシャン仲間だった恋人が麻薬中毒になり二人の関係が崩壊するなかで意地のように演奏に打ち込む彼の音楽はどうしようもなく虚ろなことを自覚せざるを得なかったのだ。
彼にとっては音楽とは崇高なもので「魂の辛苦ごときが、音楽の高みに昇華してはならない」と考えているからこそ、自らの音楽の虚ろさについて「徹底的に偽物になってやるだけだ」と決意する。
「性や暴力にも心を動かさない。かわりに。精神安定剤の浅い眠りが北米大陸を覆うようになった」ために来るべき終末世界がどうなるのかについて保留地の街で<アメリカ最後の実験>を行うヨハンもまた元は音楽家だった。
しかし失音楽症となり音楽ができなくなってしまった過去を持ち、反音楽的な実験を行う人物である。
彼も「自分は作りものだ」が口癖なのだ。
歴史が浅く理念が先行して形成されたアメリカ合衆国は超大国で世界の状況を左右する力を有しながらも、移民による多民族からなる実験的な国家という側面を持つ。
人工的な表層の一皮をむくと断絶された空白の歴史が広がっている、そんな国でもある。
ネイティヴアメリカンが追いやられその結果で生まれた保留地(リザベーション・エリア)、砂漠の真ん中につくられたラスベガスといった人工の街が本書で登場するのが象徴的だ。
そんなアメリカは宮内にとって大きなテーマでもある。
『カブールの園』ではアメリカと日本の狭間に立たされた人々が描かれていた。
そこに幼少期をニューヨークで過ごした宮内自身の経歴をみるのは容易い。
実際自身の体験が反映されたと思しき言葉の問題も言及され、実験国家アメリカというテーマが観念的になものにとどまらず直接読者が体感できるようなものとして表現されているのはそうした本人の経歴が反映されているからであろう。
しかしそうしたパーソナルな部分より本作のテーマとして比重大きいのは音楽であるように思われる。
実験的な新しい国だからこそ生まれたポピュラー音楽の顔役ともいえるジャズがモチーフとなっている。
ジャズのルーツについては諸説あって一言でいい現わすのは到底不可能だが、西洋文化とアフリカ文化が混ざり合い多様なルーツを持つ人々の文化がからみ合って発展してきたことは間違いない。
音楽に造詣の深い著者が現代の多角的な知見から音楽と人間の未来について考察しており本書の大きな読みどころとなっている。
さまざまなストーリーが鮮やかに収斂して結末に至る本作は、上記のような空虚さを抱える人物たちを描きながらも、ひりひりするような存在の痛みを感じさせることが多い宮内作品の中では意外なほど読後感は温かい。
印象的な場面がある。
音楽で行き詰まっている脩が、俊一による薬物中毒から救われた先住民の少女リューイによってスピリチュアルな施術を行われた後に覚醒するところだ。
覚醒するきっかけとなったのはグレープフルーツの香り。
柑橘類は元々北米にはない。
元々北米にはないものばかりで作られているつながりがないように見えるアメリカだが、リューイによればそれらは根の部分でつながっているという。
「この土地にはね」
「最初、わたしたちの一見独立したものに見えるカントリーやジャズも
「でも。見方を変えると―どれもが、この土地が生み出した音楽なのだと言える」
そして
「征服者にかかわらず、土地そのものが孕む音楽というものがある」
と。
征服者によって空白にされ歴史にも音楽というかたちではつながりが見えるかもしれない・・・そんな夢を想起させる。
そこには著者の音楽への想いが感じられる。
やるせない日々を送りながらもが苦しむ演奏者たちには音楽の楽しさが行間にはあふれ出てくるのが本書の大きな魅力だ。
音楽こそが実験国家アメリカの最大の成功なのかもしれない。(2018年11月25日)