異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

<シミルボン>再投稿 10代の多感な時期に大き過ぎる出会いとなったディレイニーの青春群像

※これは  #この一冊で、私の人生が狂いました というハッシュタグのコラムやレビューを募集した際に書いたもの。

 サミュエル・R・ディレイニー
 自分にとっては特別な作家である。
 そもそもこの名正確に表記をするのにはちょっと解説が必要だ。

 SFマガジン1996年8月号でディレイニー特集が組まれているが、エッセイ「ディレ-ニイ/ディレイニー」で伊藤典夫が指摘しているように現在の表記が安定するまでにディレーニイだったりディレーニだったりしていたのだ。
 エッセイではどうして現在定着した表記を伊藤典夫が主張したのかよく理解できる。
 ここでは基本的に現在定着しているディレイニーとする。

 東洋系の女性を主人公に据えたスペースオペラは面白く白人男性作家が多数派を占め視点が偏っていた執筆当時に黒人作家ディレイニーが提示したものの大きさを東洋の片隅でいち日本人読者として感じたが、玄人筋が絶賛するメタファーなどは把握できていないもどかしさも感じていた。
 一方で、黒人でゲイ(とはいえマリリン・ハッカーという夫人がいるらしいということでぼんやりよくわからない感も覚えていた。まだLGBTという言葉がなかった時代である)で数学や物理にも通じ、世界各地を回りミュージシャンなどの経験もあり20代前半にして傑作を次々にものにした早熟の天才とその存在自体がSF的な人物であることを知り、その著作を追っていきたくなっていた。
 そんな中で入手したのが『時は準宝石の螺旋のように』である。
 あまりに印象的だがなんとも不思議なタイトル名(それにしても「準宝石」という言葉が使われたことが他にあるのだろうか。この作品タイトルを借用したような事例を除いて)、なにか特別な作家と感じさせるにふさわしかった。
 とはいえサンリオSF文庫の中でこの本を初めて読んだのはあくまでも偶然である。
 雑な性格なので持っている本には購入した時の二百五十円という値札がまだ貼られたままだ。
 同世代の方にはわかると思うがサンリオSF文庫は10代の少年には高く感じられ(ロックのレコードを買ったりコンサートに行ったり、映画も観ないといけないからねえ)、古本で入手せざるを得ず本当は一番読みたかった世評高い『エンパイア・スター』はなかなか出回っていなかったなかで、家の近所の小さな古本屋にあったのが『時は準宝石の螺旋のように』だったのだ(ちなみにその古本屋は失礼ながらはやっていなさそうなカラオケ屋になぜか現在はなっている。古本屋の時の名前そのままで)。説明がほとんどされずにテクニカルタームがポンと投げ出され登場人物たちの視点から断片的に出来事や作品世界内の世界が提示されるディレイニーのスタイルに戸惑いながら読んだ記憶があるが、そんな中で特別心に残った作品があった。
 「スター・ピット」である。
 現在は『ドリフトグラス』(国書刊行会)で読むことができる。

 SFとしては、メインアイディアは序盤で早々に明示されていることもあり比較的全体像の把握しやすい作品ともいえる。
 そのメインアイディアは端的にいえば「閉ざされた人類」。人類は銀河系外に出ると精神に異常をきたすため到達できない、というものだ。作品の核となる「閉塞」のイメージも子供たちへの教育用に作られた生態系をプラスチックの箱におさめた「生態観察館(エコロガリウム)」の生き物たちに象徴されているように繰り返しはっきりと提示され、それも初読時から把握できた記憶がある。ただし銀河系外に出られる”ゴールデン”という連中もいる。
 通常の冒険SFなら広い世界を飛び回るゴールデンに焦点が当てられるだろうが、本作でのゴールデンはどちらかというとそれ以外の普通の人間たちからは理解をするのが難しい謎めいた存在として描かれている。一般的に視点を合わせやすいのは銀河系内に閉じ込められた人々ということになる。そこに自由を奪われた黒人たちの苦難の歴史を重ね合わせるのは自然な理解だろう。
 当時残念ながらそこまで理解が及んでいなかったが、それでも閉塞した人々の苦しみは痛いほど伝わってきたことを読み返すたびに思い出す。
 たとえば15歳の少女アレグラ。麻薬中毒者の母親の胎内にいたため依存状態となっていたが、テレパスであったため医師を混乱させ自ら生後の麻薬依然生活を手中にしてしまう。
 さらにはその特殊能力から8歳にしてゴールデンの精神療法医として政府に雇われる。
 そんな彼女に惹かれる少年ラトリットは13歳。6歳にして戦争で親たちをみな殺され(この作品での未来は複数の大人が養育グループで子供を育てる家族制度になっている)7歳で重罪の初犯(その後捕まり、はっきりとは書かれていないが再犯防止のために脳の手術を受けたようである)、養育グループを次々に逃げ、11歳の時裕福な人物に拾われ口述による小説がベストセラーとなるといったエピソードがある(創作関係のエピソードが入るところはディレイニーらしい)。またラトリットは誰よりも銀河系外に出たいという気持ちを持っている。そしてこの二人は思いを寄せあうがそれもつかの間、悲劇が待ち受ける。青春の輝きと無残が余すところなく描き出されている。
 一見通俗的な道具立てから成り立っているが、高度の技巧と煌びやかな文体に彩られそこに現出するのは全く新しい世界。ディレイニーがデビュー当時から評価を得たのは自明のことだが、自分がまず読者として反応したのはその官能性にある。とはいってもこの場合エロティックということではない。性的な題材はディレイニーにとって大きな要素を占めるが、本作では目立たない(どころかほとんどない)。ここで官能と表現したのは五感に訴えてくるという意味である。様々な感覚が鮮やかに描出され登場人物たちの絶望やわずかな希望は直接触れられるかのごとく感じられるのだ。
 ディレイニーの描く世界には温かみがある。一見非人間的な存在にみえるゴールデンもまた悲しい存在であることがやがて判明する。人々は閉塞感に苛まれてながらも不器用になんとかお互いとつながろうとしては傷つく、それがまずます切なくそれゆえの温かみがあり、非常に官能性に富んでいる。
 ディレイニーアメリカン・ニューウェーヴSFの旗手とされた。ディレイニーがデビューした1960年代、それまでのSFは未来を舞台にしながらも古い人間観に縛られ時代遅れになっていた。そこで生まれたのが新しい表現を模索するニューウェーヴSFだったのだが、「スター・ピット」の登場人物たちは<ほんとうの>未来人だと感じさせるのに十分な立体感があり、一方で現代人とは別種であるはずの「モラルも考え方も新しい未来の人間たち」の苦悩がひしひしと伝わってきた。10代の自分にとってはそれまでにない読書体験だった。それは今思えば表面上の時代的な枠組みを剥ぎ取った後の普遍的な人間の苦悩をいったん空想の世界に託して照らし出すことに成功していて、SFの特性が生かされているということでもあった(もちろん当時そんなことは意識せずに読んでいた)。
 1967年発表の作品(小説の最後に1965年10月の記載があり、執筆時期はさらに遡ることになる)でマイノリティへの理解が今以上に進んでいなかった時代、先鋭的な視点であったことは間違いない。
また初読から数十年経って今回再読して、周囲と馴染めず家族を戦争で失い流れ流れてスター・ピットにやってきた42歳、若者たちの行く末に心を痛める語り手ヴァイムの方に立ち位置が近くなっていることに気づく(それどころかいまやこちらの年齢はヴァイムを大きく超えてしまった(笑)。執筆時20代前半にして夢破れた中年を配しその内面を描き切る老成ぶりには舌を巻く。また細部まで精巧に作り込まれていることにも驚かされる。まさしく天才のなせる業だ。
 しかしそれでも印象的なのは、執筆年齢ゆえの抑えきれない情熱が行間にほとばしる若々しさだ。不安と希望が交錯する多感な10代にそんな小説をまともに食らったのは大き過ぎる出会いだった。二百五十円で人生が変わることもあるのだ。
 しかし当時それがどれほど大きかったかほとんど気づくことなく同じ頃プリンスに衝撃を受けファンクという音楽を好きになりP-ファンクにはまることになる。やがてディレイニーとP-ファンクをつなぐアフロフューチャリズムというものを知ることになるのだが、それはもう少しあとの話だ。(2019年3月23日)