- 作者: 佐藤亜紀
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/01/09
- メディア: 単行本
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『小説のストラテジー』に続く著者の小説論。こちらも大学の講義に基づいている。
小説の目的を「記述の運動によって読み手の反応を引き出すこと」と考える時、そこには戦略/戦術的側面が生まれてくる。その目的を達成するために作り上げる大きな構図が戦略(ストラテジー)、戦術(タクティクス)はそうした構図を実現するために取られる個別の手段である。本書では、「小説における戦略は、形式をめぐって展開されます」とされ、「その形式はどこから引き出されるのか、何がある形式を生みだすのか、何からある形式を作りだせばいいのか。」が小説の戦術上の問題とされている。ついつい我々は内容が先行してある形式が選ばれるという思考に陥りがちであるが、全ての作品は一旦は満たした<内容>を時間の経過とともに失い、形式のみが残る(著者は作品と内容の関係を、鋳型と蝋型の関係に準えている)。後世の時代の鑑賞者に出来るのはその形式に元々あった「内容」を推察する「読解」や「解釈」があるのみである、という実に的確な指摘がなされている。そして論考はそうした形式の1989年以降の変化に及び、さらにスリリングな分析がされる。貧富の差の拡大、ボスニア紛争・911テロ、(日本では東日本大震災・原発事故)等による時代の変化により、これまで近代の神話であった「主人公が困難な状況を切り抜ける中で固有の顔を獲得していく」というドラマトゥルギーが崩壊し、固有の顔の得られないあるいは得たと思った固有の顔が容易に剥奪されるといったテーマが表現されるようになった。こうした表現は時に旧来の表現者に忌避される結果も生み、SFにおいても従来常識とされてきた人間像を越えたあらたな人間と社会の関係を描き出した伊藤計劃や佐藤哲也の小説は不当な評価をされたという事態に陥ったというところも面白い。そして形式という意味で例えば映画に比し変化の乏しい小説という形態でこのような変革の時代に表現する困難さに触れながら、世界の不安定性と上記の様な「顔のドラマトゥルギー」が放棄されていることを認識して近代小説を超えた何かを生み出す必要がある、と締めている。
著者の論考は常に明晰で啓発されるのだが、本書も読み応えがあった。佐藤哲也の小説は以前から気になっていたのだが、これは読まねばなるまい。時代の進歩により人間性が回復されていくといったいわば<進歩の病い>といった要素はSFの体質と分かち難く結びついているところがあり、なかなかその部分に関しては突破したといえる作品は多いと言えない気はするが、それを乗り越えた良作には文学の新たな可能性を感じるのも事実であり、そこには注意深く着目していきたいと思っている。