異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

『聖なる侵入 [新訳版] 』 フィリップ・K・ディック

聖なる侵入〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

 <ヴァリス>三部作が現在どのように受け止められているかわからないが、1980年代ディックの評価が急速に高まり初めて刊行された時代はいち読者の印象としては「かなり難解」あるいは「わけがわかならい」というあたり。当ブログ主は「SFファンやディックファンなら『ヴァリス』はまあ読んでおいた方がよい、『聖なる侵入』はついていけない内容で『ティモシー・アーチャーの転生』はかなり地味」と解釈して、『聖なる侵入』以降の二作は長年放置していた。ということで初読。

 辺境の惑星で引きこもり暮らしをしていたハーブ・アッシャー。処女懐胎し聖なる息子エマニュエルを授かり邪悪なゾーンに覆われた地球に向かうライビス・アーミーの手助けをすることになり、ライビスの夫になり行動を共にすることになる。しかし地球行きの際の事故でライビスは命を失いエマニュエルは記憶を失うが、特殊学級で出会った少女ジーナによって自らの役割に気づきはじめる。やがてエマニュエルとジーナは世界救済を巡ってハーブの現実に介入することになる・・・。

 エマニュエルとジーナがハーブの人生を素材に実験する、という枠組みがポイントになるので(解説の序盤でもふれられていて)重要なのだが、これがよく分かりにくくとまどった。ハーブはエマニュエルの仮とはいえ父親で(蒲田行進曲のヤス?)恩人なわけで、聖なる役割を担う人のはずなんだが、その人を実験の素材にするというのがちょっと変。さらにエマニュエルやジーナは当然ハーブの関係者なので、二人が介入しているハーブの現実にも度々二人が登場して読者として混乱した。例えば人間が小さい世界の支配者として介入するSFの古典『フェッセンデンの宇宙』だったら介入する側と介入される側の現実は完全に分断されていて、混在することはない。
 と少々読みにくい小説だったが、解説と小説をいったりきたりしていくうちにディックらしさが各所に感じとれるようになり最終的には面白く読み終えることができた。枠組みとしては上記のようにはなるんだけど、ディック流のダメ人間小説としては全然違う話になる。ディックの多くの小説に出てくるダメ人間の一人であるハーブは気の弱さから、世界の善と悪の闘いに巻き込まれてしまう。半信半疑の彼だったが、世界の真実が大好きな歌手リンダ・フォックスの歌にこめられていることを知り、覚醒しはじめる。やがて(これはエマニュエルとジーナの実験でしかないのだが)彼はリンダ・フォックスと会いことになり、ますます彼女に惹かれていくことになる。その結果、(実験中の現実ではまだ生きている)妻ライビスと不仲になってしまう。といった、世界の真実というスケールの大きい世界と煮え切らない三角関係という小さい個人的な世界が電波的な啓示(と前のめり気味の神学論議)でつながるいかにもディック的な小説なのだ。さらにリンダ・フォックスには作者自身のお気に入りと同じリンダ・ロンシュタットの名前が当たられているばかりか、作中にもリンダ・ロンシュタットが登場してしまうアンバランスさもらしいというか脱力してしまう(もしリンダ・フォックスが作中でリンダ・ロンシュタットの化身であるなら、リンダ・ロンシュタットの名前を普通の作家なら出さないように思う)。一方神学論議は元々得意ではないのでそれについてのことはおいておくと、作中の<ヴァリス>の言葉が何度か登場するものの、『ヴァリス』とのストーリー上の結びつきは直接あるとは感じられなかった。
 神学論議についてはどうしても集中できずその部分でのディックはいまだに測りかねているのだが、ディックのダメ人間には共感するものが常にある。希望に満ちた(笑)若者であった当ブログ主も世の中に出て生きていくうちにいかに自分の人生がままならないものかを思い知らされた。かといって悟りを開くほどの高潔な人物になるわけでもなく、グズグズと過去を悔んだり小さいことに慰めを得たりしながら日常をやり過ごしている。そんな自分も第三者からみれば何らかの考えの偏りを持ち自己流神学にハマり込んで抜け出ることができなくなったディックとさほど変わりがないかもしれない。そんなことを考えながらディックの小説を読んでは「こいつらダメだなあ(苦笑)」などと思う。最近はそんな風にディックとつきあっているのである。
 

 

映画『海街diary』観た

 鎌倉で生活するようになって8年ほどになる。生粋の地元民ではなく実は熱心に歩き回る方でもないのだが、そこはそれさすがに地域のあれこれが分かるようにはなった。鎌倉の生活の期間はまだ10年も経っていないのだが、川崎や横浜で育ったので神奈川県での生活は長い。吉田秋生は昔から好きな漫画家だったが、80年代にも『河よりも長くゆるやかに』で神奈川県を舞台にするなどたびたび神奈川県を舞台に選んでいてこともあって、思い入れを強く持つようになった。さらにたまたま鎌倉に引っ越すようになってから鎌倉を舞台にした『海街diary』が刊行され、これが素晴らしい作品であり自分の中で特別な位置を占める漫画家になった。
 さて実写映画化の話については実はそれほど興味を覚えなかった。元々メディアの違いからなかなかファンの納得する映画になるはずはなく、比較自体もなかなか難しく、せいぜいが「明らかな冒涜」(笑)かそれ以外ぐらいじゃないかと思っている。ただ非常に面白かった映画『誰も知らない』是枝裕和監督が担当するという話を知ったので、やはり観に行くことにしてみた。で、感想としては大変良い映画だった。ただこれは多分に個人的な事情もあるので、冷静に評価ができないというのが本音。
 
 別れた両親が結局家を離れ面倒をみていた祖母も亡くなり、似合わない古い民家に住む鎌倉の三姉妹。山形で亡くなった父の葬式に出席をすることになったが、出迎えたのは亡き父が出ていくきっかけとなった愛人との間に生まれた腹違いの妹すずだった。すずは三姉妹にとっては自分たちの父親を奪った愛人の娘だがすずの母親は既に亡くなっており、山形の未亡人は父の三番目の結婚相手ですずは未亡人の連れ子や未亡人の親族のもとで肩身の狭い生活をしていることを三姉妹たちは知る。長女の幸は突然すずに鎌倉に来ることを提案、すずはそれを受け入れ不思議な同居生活がはじまる。

 四姉妹ものです。『高慢と偏見』は調べると五姉妹だが、『若草物語』『細雪』『阿修羅のごとく』などなど古くから四姉妹ものはあって何度も映像化されているのも特徴だろう。これは至極当然で年齢の違いきれいな女優さんを何人も出せるのだから、作品は華やかになるし幅広いファンを獲得できるしで製作サイドとしてはいうことなし。今後も続くだろう。そういった系譜の映画なので、長女幸の綾瀬はるか、次女佳乃の長澤まさみ、三女千佳の夏帆、四女すずの広瀬すずの魅力について書いていくのが本筋なのかもしれないが、そういうのは不得意なので地元民視点など別な観点から感想を書くことにする。(以下映画・原作の内容に触れます)
 
 非常に良かったのが距離感。彼女たちの家は極楽寺にあるというのは原作通りだが、実際のロケで撮影されることにより地元民により身近に感じられるようになった。極楽寺を中心とした生活圏がかなり忠実に各場面に織り込まれていてリアルなのだ。特に印象的だったのは、法事で母親都とぶつかった幸が反省し仲直りのしるしに極楽寺の駅から家まで手づくりの梅酒を取りに行くシーン。これ極楽寺江ノ電極楽寺駅、(おそらく近くにある)幸たちの家の距離感が絶妙で実にリアルなんだよね。ポイントは極楽寺江ノ電極楽寺駅の改札の反対側にあってすごく近いこと。架空である家も駅からほど近いと考えると幸の行動の全てが自然なんよね。法事の後に大船の親戚の家に泊った都が幸に詫びて土産を持ってくる→一晩明けて落ち着いた幸が都に家に上がるようにすすめるも気まずい都は母親(幸たちの面倒をみた祖母)の墓参りをしてから家に帰るという(都は再婚し遠方に住んでいる)→(家からすぐの寺なので)一緒に行くという幸→墓参りで都の心情に気づく幸→(寺が家に近いので)家に梅酒を取りに行く幸→駅で待っている都に家で分けた梅酒を渡す幸、という流れが時間感覚的に非常にスムースに感じられる。これ原作そのまま(原作ではすずの土産を忘れているという違いがあるが)なんだけど、映像化でやっと気づいた。細かく言うと映画では海猫食堂や喫茶店の場所がどこにあるかちょっとイメージしにくいとか(追記 喫茶店は極楽寺のそばにあってもいいかなとこの間歩いて思った(笑)、すずの同級生の漁師の子の家はすずの通っていそうな中学とは学区が違いそうとかあるんだけど、鎌倉を舞台にしたテレビドラマなどではしばしば行われている場所の組み換えは最低限に抑えられていてそれが効果的。すずが目立って拒否されるようなエピソードはなくストーリーとしては現実離れした世界が描かれているものの、その非現実的な世界を成立させるためにいかにリアルな手触りが重要なのかということがよく分かるシーンでもある。また四季の風物も丁寧に撮影されている。これは我々が生きている日常の風景が自然な形でしかも非常に美しく記録されていることでもある。これだけで感涙ものだ。(実際マジ泣いた)
 もうあとのことはどうでもいいくらいなのだが(笑)、少し気持ちを落ち着かせて客観的にみても良い映画だと思う。上記のようなあらすじからも分かるように優しいストーリーに反し非常に死の影が色濃く現れた話でもある。映画でも葬式のシーンが目立つ。一方原作では腫瘍で膝から下を失ってしまうすずの同級生裕也や仕事場での幸のエピソードなど病についても重要な要素になっているのだが、映画ではあえてそこを切っている。また私見だが、しばしば死とセットで表現される誕生や四季のめぐりのような再生や新生を象徴する表現も目立たず本映画では常に身近にある死とその受容といったものの方に比重が置かれている気がした。豊かで生命力あふれる自然と死を意識させる寺が多くある鎌倉というのはその表現に最適なのかもしれない。
 その他原作の違いとしては、映画では佳乃の彼氏である朋章の話も簡略化されていること(実は高校生というのはさすがにマズかったか)や山形や母親周囲の話もそれほど追われていないというのもあるだろう。動画のインタビューを見ると長澤まさみが是枝監督について「(役に近づかせるというより)本人の資質を引きだそうとするタイプ」というようなことを言っていて、経験のない柳楽優弥を使った『誰も知らない』のように作為不作為の使い分けが巧みな監督なのかなあと思ったりもした。そういえばネット上で指摘している人がいたように、江ノ電鎌倉高校前駅クレーンのところも面白かった。普通だと風景にはいかにも邪魔なんだけどあえていれてるんだよね。結果的には今の時代の記録になるし変に避けたりしなくてよかったなとも思い、この辺も作為不作為の話になるのだが、実は是枝監督の作品はあまり観ていないのでこの程度にしておく。
 演技についてコメントするのも不得意なのだが、そんな自分でも三姉妹の母である都を演じた大竹しのぶはこれぞ名女優という感じだった。三姉妹の大叔母(都の叔母)を演じる樹木希林と共に必ずしも出番は多くないものの存在感を発揮していて、そんな二人が揃うだけで日本の家族らしい空気が生まれるのは本当に凄いと思った。幸と都の言い争いと一喝する大叔母は人間ドラマとしての映画のハイライトといえるだろう。風吹ジュンも素晴らしかったし、リリー・フランキー池田貴史もイイ味だった(あの役はたしかに池田貴史しかないかもな(笑)。
 最初に書いたようにメディアの違いということで原作との細かい比較はあまり意味がないと思っている方なのだが、原作のエッセンスが詰まり重要な台詞やエピソードは原作に忠実でリスペクトあふれる優れた映画化だと思う。今度観る時は何を原作から外したのか、なぜ外したのかに注目してみたい。それにより監督の意図が読み取れるのではないか。

※追記 2年以上前のインタビューになるが→ http://s.animeanime.jp/article/2013/03/21/13387_2.html 最初にできたキャラクターは次女佳乃なのね。結果映画版で一番生き生きしているのも長澤まさみだというのもある意味納得。