異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

2025年6月に読んだ本と参加した読書イベント

 数としては低調になっちゃったなあ。ギブスンにかかりきりだったこともあり。
◆『ハードワイヤード』ウォルター・ジョン・ウィリアムズ

 ニューロマンサー』影響下の作品として、比較のため読んでみた。タイトル通りに機械と神経接続が当たり前となったディストピアで、アンダーグラウンドの世界で生き抜く主人公たちの闘いが描かれる。神経接続、ドラッグといった意匠そのものはサイバーであり、男女バディなど『ニューロマンサー』の影響を強く感じさせる作品だが、より"人間的"な物語やアクションに軸足が置かれている。ということで、人間が(従来の)人間ではなくなる世界を表現まで含めて描き切った『ニューロマンサー』から志として後退をしているといわざるを得ない。ノーマン・スピンラッドが激賞したらしいが首を傾げざるを得ない。個人的な趣味としてもアクションにはあまり興味が持てないこともあり、失礼ながら走り読み。蛇足だが戦車SFでもあったな。
◆『カウント・ゼロ』ウィリアム・ギブスン

 再読。とはいえ全く記憶がなく、さらになかなか複雑なプロットで把握しづらかった。とはいえ細部は魅力的でまたトライしたい。主人公は別だがモチーフは『ニューロマンサー』と重なり、機械やシステムなど非人間的な存在が人間のようにふるまい人間が非人間化していく世界やその中のブルース(哀感)、アートなど創作物をめぐるメタフィクション、非西洋文化による世界の変容など。最後に関しては『ニューロマンサー』ではラスタファリアン文化、本作ではヴードゥーが扱われている。
 お題『ニューロマンサー』名古屋SF読書会に向け、他に<スプロール>シリーズの短篇も再読。基本、浅倉訳の方がやはり読みやすいという実に普通っぽい結論(苦笑)。

「記憶屋ジョニー」
 最初期に属する短篇だが既にモチーフやスタイルやガジェットが完全に確立している。記憶の運び屋で仕事の性質上その記憶がないというところにノワールらしさと哀切、またアイデンティティのゆらぎというspeculativeなセンスがあっていい。タイポグラフィックな遊びはべスターかな。SFにおけるイルカものがどうもニューエイジ風味で(ロック黄金期より少し後の世代的なこともあってか)苦手なのだが、実はこれもイルカもの。もっと新しいイメージのギブスンに過渡期的なフェイズもあったのだなと思うとそこは面白い。
「クローム襲撃」
 今回再読していて、評価がより高くなった一番はこれかな。シンプルだがエモーショナルで完成度も高い。
「冬のマーケット」
 最も40年前の作品が普通小説の様に読めてしまう予見性の恐ろしさたるや。これも<スプロール>ものとしてモチーフは共通。<20世紀SF>にも収録されていたがその裏テーマで、やはりメディアものであるし、アートネタも出てくる。文体は一番ハードボイルドっぽい印象もある。
 で、予定通り名古屋SF読書会に参加できました。

sciencefiction.ddns.net
 バロウズやらビートニクやらラスタラファリアンやら、ホントにあても知らん持論を好き勝手に話させていただいて…(大汗)。この読書会はホスピタリティが最高で、間口は広くSFマニアだけではなくいろいろな参加者がいらっしゃる一方、プロの方がコメントでサポートをしてくださる奥深さもあって、ついついノリ過ぎてしまうのですよね。そんな中でもおおらかに話を引き出してくださる。2次会、3次会と楽しみまくり、若い方ともお知り合いになり。開催担当の方々、そして参加者の皆様誠にありがとうございました!思えば、サイバーパンク黎明期のSFセミナーの合宿(1984年ではないかと思う)で、翻訳の始まったブルース・スターリングの短篇について、高校生で一人ぼんやり傍観していた当ブログ主にお声をかけてくださったのがこの名古屋SF読書会の中心人物渡辺英樹さん。当時から苦手で一時SFを離れるきっかけとなったくらいのトラウマ『ニューロマンサー』の先駆性がようやくつかめ、トラウマに一定のピリオドが打てた気がする。ということで個人史的にも重要な読書会だった。
 話が戻り気味になるけど、SFマガジンウィリアム・ギブスン特集も(まだ読み途中ながら)面白い。

 巽孝之氏大活躍の巻。(メールインタビュアーを務めた)インタビューで、ギブスンが黒人文化、ジャマイカン文化に接した時期のことなど少し言及がある。世界的に闇の立ち込めるような時代において、前を見つめるようなギブスンの言葉には感銘を受ける。
 氏の<特集評論>「ビル・ギブスンと出会ったころーサイバーパンク四十周年ー」ではディレイニー〜アフロ・フュリズムとギブスンの関係、そこからなんと南部文学からの流れについて。流麗かつアクロバティック。氏ならではの論考でスリリングである。
 さて、オンラインのSFファン交流会伊藤典夫評論集成』特集も参加した。

www.din.or.jp
あらためて日本のSF受容ということで歴史的資料として重要なのだなとあらためて感じる。ファン交のトークもさまざまなエピソードが出てきて面白かった。全国で勝手に本を読んでいた猛者たちが、だんだん集結していって活動が生まれていったのだなあというのが(個人的間接的な体験含め)実感できた。上記のSFマガジン巽孝之評論に言及があった「エンサイクロペディア・ファンタスティカ」の一部を読んでみた。ディレイニーのところとかやはり読みごたえがあるし、ニューウェーヴSFの解像度が最初から高いことに驚かされる。1971年にして(ニューウェーヴに出会ったとで)SF界で自らが「ゲットー的考えかたをSFの評価基準として、無批判にうけいれてしまったこと」を自覚しているのはさすが伊藤典夫としかいいようがない。