異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

2023年3月に読んだ本、と怪奇幻想読書会

◆『輝く断片』シオドア・スタージョン
 再読。
「取り替え子」
 遺産相続のため、赤ん坊の世話をして家庭的なところを親戚に見せなくてはいけない夫婦。偶然現れた赤ん坊は<取り替え子>で、というコメディ。切れの良い会話が楽しい一作。
「ミドリザルとの情事」
 冒頭いきなり怪我人を助ける夫婦の描写から全く思いもかけない方向に転がっていく。先駆的なテーマを含め、スタージョンの特質がよく現れている。ティプトリージュニア「男たちの知らない女」も連想させる。
「旅する巌」
 時によくわからない作品があるスタージョンだが、これもそうした部類。解説にあるように無理矢理SFにしたと考えると納得がいく。ただ、ヒット作後に書けなくなった作家やその周辺の人々の描写やスタージョンらしい入り組んだ関係など読みどころはある。
「君微笑めば」
 主従に近い友人関係の不快さを軸に、作者らしい奇想が展開される。人間の生な一面を描き出すのが巧み。
「ニュースの時間です」
 SFマガジン掲載時にびっくりした作品。ニュースを聞くことに取り憑かれた男の歪んだ日常から次々に思いもかけない展開を示す。傑作なのだが、精神医学については誤解を招くかもしれない、と少し思った、
「マエストロを殺せ」
 別の訳含め、何度か読んでいるが、やはり傑作。なにもかも察知しているかのようなバンドリーダーと可愛がられている主人公の相剋がリズミカルな描かれるジャズ小説。行間からはねるようなリズムが飛び出してくる見事な文体でサイコミステリを紡ぎ出す天才の技が堪能できる。
「ルウェリンの犯罪」
 日常生活を暮らすのに障害のある(らしい)主人公が、意図しない方向に流れる物事に混迷する。プロットに重きが置かれるタイプの作品で、その分登場人物たちはある程度書き割りのような造形になっているのだが、なぜか異様な行動原理や関係性が漂うところにスタージョンの作家生が感じられる。
「輝く断片」
 サイコ的な作品が続くのが、この短篇集のなかなか息苦しいところなのだが、中でも最後を締めるのにふさわしい作品。長くはないが、序盤から延々と続く身体がらみの描写には辟易とする読者もあるだろう。しかしこれまた登場人物の行動に異様な迫真性があって、独特な輝きを放っている。
◆『ヴィーナス・プラスX』シオドア・スタージョン
 長年の懸案積読本であったこちらもついでに読んでみた。ユートピア小説にひねりが加わっているユニークな作品だが、その分一度くではつかみきれなかった。印象のみの雑感になってしまうが、終盤が駆け足になっている感はあり、そこに短編作家体質を見てしまう。また訳者は(意訳気味にまとめると)「一般にユートピアものにみられるスタティックな冗長さが本書にはないのが美点」と評価していて、たしかに二舞台で進行する構成や後半のダイナミックな展開など基本的には同感である。しかし、それでも主人公が紛れ込んだ異なるシステムの社会の紹介の部分は、そうしたやや読みづらいところは否めない。とはいえ、本邦の翻訳SF叢書としては屈指の変化球揃いである国書刊行会未来の文学>らしいユニークな作品であることは間違いない。安易にな常識にもたれかかることのない作家らしく、現代の視点からみても様々なジェンダー的問題を提示し今日なお刺激的な内容となっている。また怪奇幻想短編作家として記憶されるスタージョンが長編ユートピア小説を残したのはなかなか面白い。スタージョンはSFも書いたが、ユートピア(反ユートピア)小説はSFともまた違った系譜を持っていると思う(ヴィーナス・プラスXはSFでもあるが)。それら様々な作品の背景に共通するのは、常識へのチャレンジなのかもしれない。
 ということで、『輝く断片』を再読して第40回怪奇幻想読書会にも参加。

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 スタージョンのことをこんなに話したのは初めてだったかもしれないなあ.。その特異性、傑出した短編作家としての技量についてなど、実に楽しかった。
 kazuouさん、いつも感謝感謝です!

◆『動物農場ジョージ・オーウェル
 有名な作品だが初読。動物たちが、支配する人間の手を離れ、自ら農場を営むという話。動物農場を運営するブタであるリーダーが、様々な障碍を超えて支配体制を築くが、次第に権力を握り、農場にも変化が訪れる。寓話であるが、抽象化の程度はさほど大きくなく、その意味で風刺の対象がわかりやすく、弾圧の対象となりやすかったかもしれない。また風刺の面だけ強調すると見えづらくなるのは、本作の終盤の哀感だろう。権力を恣にしたブタの自らの生涯を振り返ったラストには、なんともいえない抒情がある。
◆『花と機械とゲシタルト』山野浩一
 旧版で読んでいたが本書で再読。現在『いかに終わるか』読み途中なのだが、『花と…』でも見られるような、ちょっと変わった登場人物の名前などは、異化作用として通常のフィクションと読者の間で知らず知らずに出来上がる約束事をはぎ取ろうという試みなのだろう。そういう意味では山野浩一もまた常識に挑戦し続けた作家なのだと思う(非常に理知的なアプローチで)。巻末の岡和田晃氏による論は、本書を作家史および社会史から詳細に分析した素晴らしい内容で、山野浩一やSFまた現代文学に関心のある読者に幅広く読んで欲しいと思う。特に天皇制との関係性についてが示唆に富んでいると感じた。
 ちなみに場人物髭さんのシンセサイザー演奏シーンで「ディキシーランド・ジャズとアフロミュージックの合成。ブラスの響き。星々は赤や青や黄色のスポットライト。光は点滅し、サイケデリックな花を開く。」ってこれまさしくP-Funkではないか!山野浩一P-Funkを聴いたことがあったのだろうか。(ただ、山野浩一にはサン・ラー論があるので、イメージしていたのはむしろサン・ラーであったと考えた方が自然かもしれない。以下の長澤唯史「日本SF史再構築に向けて――その現状と課題についての考察⑤」に記述がある。この「「日本SF史再構築に向けて――その現状と課題についての考察」も日本SF史と現代文学に関心のある者は必読である)
sfwj.fanbox.cc
『ブルー・ムーヴィー』テリー・サザーン
 1970年の作品。ハリウッドでビッグバジェットのポルノ映画を製作しようということで起こる様々な騒動を描いた作品。名のみ知っていたテリー・サザーンだが、映画の脚本を多く手掛けるなど、映画業界との関わりは深かったようで、本書にも経験に裏打ちされたディテールが生かされていて面白い(当ブログ主は映画もあまり詳しくないので、『博士の異常な愛情...』もサザーンが大きく関わっていたことを今回知った)。ただいかにも1970年代のカウンターカルチャーらしく、ジェンダーなど現在の視点では自由ともいいきれない限界がある(これもやむを得ないとことでもあるが)。ただ、その後高い予算を使ったり、一般映画監督を起用したポルノ映画が1980年前後にいろいろと登場する歴史を考えると時代を先取りしていた点もあるだろう。ところで、いろんな同時代の風俗が出ているが、さすがにプラスチック・オノ・バンドまで出てくるのは珍しいかもしれないなと少し思った。 
SFマガジン2015年12月号
 例によって読み切り中心。
「終末を撮る」パオロ・バチガルピ
 アリゾナ州フェニックスで特ダネを狙うジャーナリスト二人の話。水不足による世界の変化をテーマにした『神の水』のスピンオフ、というよりCMみたいなやつ。しまった『神の水』読みたくなる。
「ビューティフル・ボーイズ」シオドラ・ゴス
 女性たちを魅了する宇宙人。目新しいアイディアとはいえないが、ジェンダー的な視点から良質な作品になっている。この作家ははずれがない印象だ。
◎第3回ハヤカワSFコンテスト受賞作発表
「ユートロニカのこちら側」小川哲
 既読。(そろそろ有名作の方を読まないとなあ)
「世界の涯ての島」つかいまこと
 終末ものとVRものが融合したような印象を受けた。ゲームデザイナーでもある作者自身が日常経験しているだろうゲーム制作現場の描写(キャラクターの胸の大きさをどうするか)が一番臨場感があって、そこが中心でもよかったのではないかと思ったり(当然SFコンテスト対象作品・媒体にはないものねだりになるのは承知の上で)。

 で、漫画は相変わらずの高橋留美子
らんま1/2』32-38 うる星やつらの記事でも触れたが、見事にファンの「終わって欲しくないがラブコメとして幸せな着地をして欲しい」という矛盾した心理を結末に着地させている。こちらもうる星やつら同様に1巻分を割いてのエンディング、前の結末で自信をつけたのだろうと思う。
人魚の森』 怖い話にも冴えをみせるのが高橋留美子の凄いところで、面白かった。ただ現在の気分としては、うる星&らんまのドタバタラブコメ路線にはまり過ぎていて、こちらの消化は少し遅くなりそう。
『大奥』11 田沼意次の苦境に泣かされる漫画が登場するとは思わなかった。脇役の人物像や取り巻くエピソードなど構築度の高さが強く印象に残る作品。