さて令和版アニメ「うる星やつら」1クールの放送終了。
そちらを消化し、読み残しが結構あった原作の方も消化をし続けている。
ということで、いろいろ思いつくことがあったので、前回のブログタイトルも少し変え
funkenstein.hatenablog.com
、つらつらとまた書いていく(どこまで書いていくかも未定)。
まずは前回の訂正、原作を読んでいると昭和版アニメと同じく、ラムが世話女房っぽいエピソードはありましたね。
マフラーだかを編んでたけど、テンに燃やされてという話。
テンが怒られると勘違いしてのドタバタで、あんまり本筋ではないのだけど世話焼きっぽさは原作にもあって、昭和版ということではないね失礼。
その辺は古く感じられるが、原作にもある昭和の価値観で令和版ではそのままじゃ残念なことになりそうだな。乞現代化。
つくづく思ったのは、原作「うる星やつら」の面白さと人気には偶然性もあったのかなということ。
「うる星やつら」は一話完結でしばしば収束不能で発散傾向の結末になるドタバタ劇とあたる&ラム(いわゆる”あたラム”)のラブコメディの2つの矛盾する側面が絶妙に相まって人気になった要素があるというのが当ブログ主の印象だ。
実は当初ラムがヒロインではなかったことはよく知られているが、そのため本来ではヒロインであったしのぶの着地点が定まらないことに悩んでいた作者高橋留美子がそこを打開することにやってシリーズ完結への道筋をようやくつけることができたというエピソードもある。
ここには、創作の世界において作者自身がコントロールしうる部分とそうでもない部分が存在する、という実に掘り下げたくなるテーマがあるのだが、これは今回の話とは外れるので止めておく。
要は作者の構想と(当時)進行していく実作とのずれが、読者の想像力を強く刺激したように思う。
一方、構想通りではなかった面が作品に軋みを生じさせているきらいもあって、キャラクターの面白みを優先させた結果、あたるとラムの役割が固定され、(時々のラブエピソードでなんとかラブコメ側面を補強をしているものの)かなり多くのエピソードで二人は記号的キャラクターとなり、それ以外の登場人物のドラマが中心になっている。
それでも、多彩なキャラクターを生み出しテンポの良いコメディを生み出す才に長じた高橋留美子だけあって、記号化された二人のやり取りが気にならず、読者を飽きさせることなく楽しませてくれる。
シリーズ後半での、絵のクォリティの高まりも大きな読みどころでもあるのだが。
毎週の連載でよくこれだけ質を維持できたのは驚異的という他はない(まだ全部は読み終えていないのだが)。
その魅力の一部、生き生きしたキャラクターについて具体的に記していこう。
高橋留美子の卓越したキャラクター造形能力は、特に癖が強いだが魅力的な美女(あるいは美少女)とユーモラスでかわいい存在に発揮されているように思われる。
そうしたキャラクターは宇宙人だったり妖怪だったり幽霊だったりすることがしばしばで、架空それも非日常性もいいところなのだが、不思議と身近さを感じさせる。
その一つには土着性を帯びていることだろうと思う。
今回のアニメ版でも早期から登場しているレギュラー陣(といっていいだろう)弁天・おユキ・ラン、そしてラムあたりを見てみる。
日本の神話や民話からとられているからということではない。
ここで注目したいのは、日本の漫画等におけるフィクションとしての<ヤンキー性>である。
今ではそうでもないかもしれないが、多分に日本の少年雑誌漫画では登場人物や設定に<ヤンキー文化>要素が含まれていたように思うし、それが人気につながっていたところもあったと思う。
たとえば、学園における喧嘩というのが典型的だが、単に髪型とかフレイヴァー的に割り振られていることがしばしば見られた。
ここで話しているのは実際の<ヤンキー文化>ということではなくて、漫画における身近さと非日常性の橋渡しといった面でのフィクションとしての<ヤンキー性>といった話だ(そうはいってもそういう<ヤンキー性>自体になじめないところがあるという人がいてもおかしくないとは思う)。
気が短く空中バイクを飛ばしまくる弁天はいかにもだが、後輩の不良三人組に気に食わない先代スケバン三人組(弁天、おユキ、ラム)と勘違いされるというエピソードなどはいかにもである(そういえば「スケバン刑事」などというドラマもありましたな)。
そのエピソードは誤解だというコミカルな展開を示すのだが、小さい頃の三人は無邪気ながら割とひどいことをしていたりして、あながち誤解ともいえないところがある。
おユキは終始冷静なふるまいだが、星の女王でリーダーとしての責任感があり、それによる打算も相当なもので、怒るとどの登場人物もかなわない女組長の佇まいである。
ラム自身も、(本人の方言は違うようだが)父やいとこのテンは関西弁で、虎柄ファッション含め、関東の人間である当ブログ主から受ける印象は「関西の新興リッチの、好き放題を許されているひとり娘」である(原作では後半たまに貧乏エピソードが出てくるのだが。あたるに執着して実家から愛想をつかされたのか?)。
さてスケバン3人とは距離を置いている、ランであるが強面とファッションに見られるファンシーの同居というのも<ヤンキー性>らしさを醸し出している。
(ちなみに<ヤンキー>文化に早期から注目し言語化したのはナンシー関だと思うが、アニメには興味はあっただろうか。「うる星やつら」への言及がもしあれば読みたいものだ)
こうした要素が少年誌における人気にあったのではないかと想像している。
さて令和版アニメの方だが、1.時代に合わない部分の改変、2.元々一話完結ギャグ作品の矛盾だらけの原作とラブコメディとしての流れとのすり合わせ、3.それらを予定のクール内に収める(しかも沢山のキャラクターを極力出して盛り上げて)に腐心している様子がうかがえる。
時にギクシャクしているところもなく、苦労はわかるので不満はないが、不安はある。
なんとか完走して、なんとかこの「うる星やつら」の時代を超越した魅力をくみ取った作品がつくられ続けることを祈りたい。
(しかしまあ、昭和版の曲にした方がいいという意見をしばしば見受けるがあまり同意できないんだよな。まあたしかにアレンジし直したもの一部を聴いたらなかなか良かったが、あの古いアレンジの曲をそのまま今でも楽しめちゃうのかな…。少なくとも昔の曲そのものは楽器音とか大分古めかしくて聴いていられないのだが。時々アニメファンのいうことがよくわからなくなる...)
※おまけ
<うる星やつらカフェまで行ってんじゃないかよ!単なるどっぷりじゃねえかよ!