異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

エレガントな解答

 たまには誰もわからない話でもするか(え?大概いつも話題の範囲は狭いんじゃないかって?まあそうですな)。
 当ブログ主は一浪して大学に入学した。
 浪人の時の話をしたい。
 浪人した理由もみっともないもので、志望学部を変えてやり直したいと親にねだったというわけ。
 中高一貫の私立に通わせてもらって十分準備もしてきたのに、高3で志望が最後までちゃんと定まらなかったという。ろくでもないもんだね。
 一番興味が持てたのがSFで、高校生のうちにプロやのちにプロになる方々とも知り合うことができたにも関わらず、そちらの道を早々に断念したというのも少しは影響した。断念した理由は、読書スピードが圧倒的に遅いことと英語力を欠いていたこと。
 というわけで、浪人になって通ったのが駿台予備校である。市ヶ谷校だね。
 浪人生活、基本的には単調なものなので、終盤は煮詰まったものの、当初はあまり集中しきれなかった高3時代の反動で、やる気があり充実していた。
 当時の駿台といえば山本義隆をはじめ、全共闘がらみの講師がいたりして、大学と争っていた人たちが大学入学のための仕事をしているという世の中の単純ではない一面を知ることにもなった(ただ山本義隆本人がそういった話をしているのを聞いたことはない)。
 全共闘の時、秋山仁は「大学側でも学生側でもなく、労働者だった」という話をしていたおぼろげな記憶がある。そう、のちに人気タレントになる人だが、まだ人気講師の一人でしかなかったのだよね。秋山は「君たちの同級生はもう大学で先の勉強をしてるんだ」と生徒へキツイ言葉を繰り返し浴びせ奮起をうながすスタイルで、カリスマ性があるタイプだった。
 秋山はインパクトがあったけど、世間に広く知られている講師の講義はそんなに凄いものとは思えない感じだった。
 自分として記憶に残っているのは二人。
 一人目は物理の坂間。ぼさぼさ頭に分厚い眼鏡、細身に白衣をはおり、いきなり「ココに物質ガアル」と独特なイントネーションで黒板に図を描き始め、生徒がメモを取り出すと「こんなんじゃつまんないんだよっっ!」とかいって全部消してしまうのである。そう、長年憧れていたマッドサイエンティストの現出である!でも一見マッドなんだけど、実はちゃんと最終的に話が収束して意外にわかりやすいのだ。やっぱり多くの人に忘れ難い人物で、こんなサイトにも項目があるね→坂間勇
 もう一人は数学の根岸。こちらは恰幅の良い、紳士然とした人物。こちらも項目があるね→根岸世雄
そうそう、板書が綺麗、これは見事だったな。その印象に引っ張られているのかもしれないが、エレガントな解答をする講師という印象が強い。たとえば秋山の解法は少々ゴツゴツとした力技っぽいところが感じられたんだよね(この辺り、数学者としての資質としてどうなのかは専門ではないので全くわからない。あくまでも受験数学の解き方としての印象)。
 さて、そのエレガントな解答、というとこの人を思い出さずにいられない、われらが文学探偵である。
www.hayakawa-online.co.jp
もちろん文学と受験数学は全く違う。小説の解釈は多様であるべきだろう。ただ、この若島正アメリカの七夜」論こそ、まさしく<エレガント>な解答であると思う。

※追伸 全く関係ないがいつもモヤモヤしていることを書いておく。科学的事実に関してディスコミュニケーションが起こった時に、きちんとした論文かどうか、正しい論文形式をとっているかどうかとかが論点になり登場するパターンの表現で「論文は小説と違って・・・」という言い回しが気になる。これ、どうも「小説だと自由に書いていいけど、論文は論理的に通じるように正しい形式をふまないといけないんだよね」という論旨で使われるように思う。なんかこう「小説だとテキトーに書いてもいいい」みたいなニュアンスがないかなー。一応理系の端くれとして論文も書いたことがある一方で、小説好きの身としてはなんかモヤモヤするんだよね。そもそも小説もそこまで自由ではなく、(良くも悪くも)定まったフォーマットにのせないと読者には通じない。だから例えとして「論文」と「小説」を対立軸に持ってくるのはどうもしっくりこないし、いわゆる<理系>側に小説への偏見がないとはいえない気がしてしまうのだよね。「小説」という言葉ではない、もっと違う表現を自分なら使うかな。