異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

<ビートニク映画祭>再び

 平日は仕事の一般人なので、3/23も行って3本(「キング・オブ・ザ・ビート」は昨日観たので4引く1)。
 
「スウィンギング・ロンドン 1&2」
 なんと残念、この回は手違いで2の方は字幕なしがかかってしまったorz。こういうインタビュー系のものはニュース読みみたいなのと違って文脈がつかみづらいので字幕なしはきついねえ(まあ逆にギンズバーグの朗読が耳に残ったりしたたんだが笑)。お詫びのしるしに無料券もらったよ。ただねー本音をいえば映画自体も断片的なスケッチで1と2で映像の重なりや関係のない映像も多く正直もう一つだった。ギンズバーグの朗読なんかは貴重なのかもしれないな。

「キャンディ・マウンテン」
 昨日貼り付けたPull my daiseyの写真家ロバート・フランク監督した作品。これは期待以上の出来だった。バンドを諦め堅気の仕事に就こうとしたがやはり夢を捨てられない主人公がやり直し資金を得るために伝説のギター作り名人を探す旅に出る話。つまりは音楽ロードムーヴィーなんですな。アメリカ~カナダの壮大な自然と人々の生活が描かれところどころ印象的な音楽がちりばめられる。そして脇を固めるのがアート・リンゼイトム・ウェイツ、ドクタージョンといった個性的なミュージシャンたち。それもなかなかいい感じの役を演じてる(ドクタージョンと妻のやり取りが矢鱈とおかしい)。特に懐かしかったのがデヴィッド・ヨハンセンニューヨーク・ドールズのヴォーカルを務める一方、バスター・ポインデクスターの変名でジャイヴとかやっていたなかなかユニークな人物。こんなのとか。それなりにしぶとく活動しているみたいだし、久々に聴いてみようかなあ。
 オン・ザ・ロード的、まさにビートニク映画だね。(しかしジョー・ストラマーも出ているとのことだがどこに出てた?)

「ドント・ルック・バック」(トークショー 湯浅学氏×樋口泰人氏)
 「ノー・ディレクション・ホーム」じゃなかった。昨日こっちをやるって書いてしまった失礼。「ノー・ディレクション・ホーム」も買わないとなあ。1965年(と湯浅学氏がいってた)のイギリスツアーを追ったドキュメント。トークショーでも触れられていたが、記者とのピリピリとしたやり取りが印象深い。この頃ディラン自身は社会派フォークのイメージから脱却し音楽家としての意識を強く持った時期(このツアー自体はフォークセットの最終期でこの後電気化しブーイングを浴びる)らしくそのヒリヒリする感じが見どころとなっている。一方音楽については日常で部屋でもセッション状態でドノヴァンなど外部からのミュージシャンも参加しまくりでいつでも音楽実験が行われている様な感じ。トークショーにもあったようにキャリアでも次から次へ名曲が湧いてくるような時期で、この後発表されるライク・ア・ローリング・ストーンの試し弾きの様なピアノ練習のシーンにはしびれる。以下トークショーで印象的だったお話の羅列。
・ボブは(湯浅氏は最近こう呼んでるそうです笑)ステージが終わっても食事の場所で歌っている時もあり、歌いたくてしょうがない様な時期もある。
・この頃はアルバムなど録音も精力的に行っていた時期でさらにツアーもしていて非常に濃密な状態。
・当時のヴィデオを見ると客が壇上に上がってキスしたりするシーンもあって驚かされる。
・この映画でファンとのやり取りもあって印象深いが最近はプライバシーの問題もあって、そうした映像は残念ながら出しにくい。
・その他ライク・ア・ローリング・ストーンやボブのゴスペルの影響、モータウンのポップ・ゴスペル的な部分、フィル・スペクター関連の話などなど大変興味深かったが一部分からないことと時間切れもあり終了。湯浅氏のDJイベントではレコードとこのような話がたっぷり聴けるとのことで行ってみたいなあ。

※「ドント・ルック・バック」について追記。ディランというのは非常に面白い存在で、長く活動ししかも休養期間は割と少ないるので、それぞれの時代にどう対応したのか、また周囲がどう反応したのかを振り返ることが出来る。本来は音楽的成熟がどうなされたのかが重要なのだが、革新的な存在だからこそ、(特に60年代)それを周囲がどう受け止めていたかの部分にも興味をそそられ、やはり記者への受け応えは大きな見どころだ。それまでのポピュラー歌手ではなく、かといって運動家かと問われるとそうではないとはぐらかすディランを扱いあぐねている様子がありありと分かる。記者たちは自ら用意したフォーマットに乗ってこないことにいら立ち次第に彼に失礼な質問をしはじめる有様(君と誰々とどっちが巧いと思う?のような)。それに対するディランの態度はさすがに若く攻撃的で(現おじさんとしては)むしろやりこめられる方にも同情してしまうが(苦笑)、ディランが繰り返しているのは結局「自分の音楽を聴いたのか?理解しようとしているのか?」だ。記者たちはディランがなぜそこまで注目を集めるのか理解できない。その疑問をディラン自身にぶつけてしまうのだ。しかしディランは歌うだけだ。それぞれの疑問についての答えは一人一人探すしかない。まさに「答えは風に吹かれる」だ。こんな質問もあった「若者たちは歌詞が分かっているのか?」分からないから空騒ぎだといわんばかりの内容だ。ディランの歌詞は大人でも難解だ。TSエリオットやポーやビートニクなどの影響がありいくら母語が英語の人々であっても聴衆の若者たちの多くが十分に理解していたとも思えない(実際無邪気なファンの映像も映画の中に写されている。無邪気だから理解していないというのも短絡的かもしれないが、ディランとやり取りするシーンはあるのでどんな風に聴いているのか想像できる)。しかし若者たちはその時点では十分に理解できなくても、じわじわ理解するということはありうる。きっかけはともかく若い頃に背伸びをして何かを好きになる。分からないながらも気になり、いろいろ吸収して大人になり(時には何十年もかけて)ようやく理解できるということもある。もちろん記者たちに当時としてはポッと出の若者に対し自分を省みる義理はないかもしれない。しかしその若者がポピュラー音楽の革新者ディランであったとなると約50年後の今ここに登場する記者たちの分は悪い。結局記者たちに欠けていたのはそういうゆっくり考えて理解を深める姿勢やそういったプロセスへの認識だったのではないだろうか。