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異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん

<斎藤環x宮内悠介「精神科医が読んだ『エクソダス症候群』>@Cafe Live Wireに参加した

読書関係イベント 読書(日本SF)

 精神医学の分野を本格的に扱った宮内悠介『エクソダス症候群』について専門家であり批評家としても多くの著作を著している斉藤環さんが作者本人と対談するということでこれは見逃せないと思い参加。予想より精神科診療の現状に対する踏み込んだ話もあり大変興味深い内容だった。
(以下当ブログ主医療分野の人間かつこの領域の専門ではないという微妙な立場であり、またデリケートな領域でもあると思うので概略的・断片的にまとめてみることにした。例によって話の順番は整理のため順不同です。元々このブログ自体個人的・備忘録的なまとめなのですが、間違いや誤認の際は御指摘いただければ幸いです。それから一部内容に触れている部分があるので未読の方はご注意ください)



 まず宮内さんは10代後半から精神科分野の興味があり、本作も22、3歳から構想があったとのこと。しかし初稿から2年直しが必要だったりなかなかの完成までご苦労をされたようだ。本作について斉藤さんは「精神分析ではない精神医療を正面から扱った作品は珍しい。いわばSFによる精神医学史批評」であると評価され、宮内さんも「反精神分析的な立場を念頭に置いた」といっていて、双方から中井久夫の著作の話が出ていた。宮内さんは10代の頃ディック『火星のタイムスリップ』や中井久夫の著作を読んできた経験が本作に反映されていると。
 斉藤さんから現在の精神医療について様々な話題が提供された。難しい問題もありまたかなり幅広い話題が出たので、ここはいったん箇条書きで。
うつ病統合失調症の診断や薬物医療に関する問題
・精神医療に関して、旧来から「一般性から個人性」の間を揺れ動いている傾向について。一般性というのは誰でも説明しうるような生物学的な評価や診断基準をもうけて一般化するような方向性。ある物質で脳の働きを特定したりMRIなどの画像診断で脳の機能の多くが診断可能であるとする立場も同様。一方個人性(個別的といってもいいだろうか)というのはフロイト精神分析のように「誰でもが精神異常になりうる」と考え個別の事象として解析する方法。たとえば内科学のように血液検査や画像検査などから一般性をもった診断ができるようにすべきだという流れは精神医学の中にずっとあって、現在は基本的に生物学的な方向に学問の主流は移ってきて、精神分析的なものへの科学的な信頼が疑問視されるようになっている。しかし個別的な流れはあり「マインドフルネス」といういわば瞑想による治療に対する研究も盛んになってきている。面白いのは生物学的な方向が一見科学性が高いようにみえながら、「全て脳の画像診断で説明可能」という極端で信頼性に乏しい説を唱えている学者も目立つし、逆に「マインドフルネス」のような一見危ういように思えるものがエビデンスのある論文が多く提出されているという逆転現象がみられるとのこと(たしかにPubMedでも今年も多くの論文が出されているようだ。内容は確認していないが)。いずれにしても生物学的な(たとえば薬理学的な)単純なモデルで説明するのに限界があり、遺伝的素因に環境因子が加わるといったエピジェティックス的な複雑なモデルを想定しないと難しくなってきている(他の領域も同様な傾向があるようにブログ主は感じている)。
・また最近の治療として斉藤さん自身本を出されている『オープンダイアローグ』という方法があり、フィンランドの一地方で行われている対話による精神医療で、オープン化され従来の医者と患者の1対1ではなく複数の医療関係者が対話に加わるというのが特徴。統合失調症も改善しているとのこと(画期的な方法で、日本人でも訪ねて実際の治療を知ろうと訪問をする関係者が多いようだが、地域性のこともあり、本国でも首都で導入できるかは難しいらしく、日本で全国的に導入されるかは分からないとのこと)。オープン化され対話の中で本人が特別ではないと感じることによって症状が軽減するという方法で、モノローグによる妄想をダイアローグで無効化するとう考え方で、斉藤さんによると「創作はモノローグだから、フィクションをつくるという創作の世界とは正反対な行為であるともいえる」と。
・斉藤さんの頭から離れない妄想的仮説「あらゆる共同体おける、精神的な健康総量は一定である」について(自身の著書『ビブリオパイカ』のバラード『コカイン・ナイト』評でも登場していた)
 さて作品ががらみのお話にもどると本作でマッドサイエンティスト的な役割を担っているチャーリーについて宮内さんは「<意識のハード・プロブレム>という考え方があるなら<社会のハード・プロブレム>があるのではないかという問いかけから個人と社会を共に治療をしてしまおうという危険な考え方の登場人物」と。そしてチャーリーを「反精神医学」的な人物と設定、「反精神医学的な考え方はいわば文学的で耳に心地よい部分があるが実情を考えるとそれには問題があり、本書全体は反・反精神医学的ともいえる」と。そして斉藤さんから「反精神医学としてどの辺りを想定してチャーリーを描いたのか」という問いに「ユンギアンあたりの立場から精神分析の復権と唱えるようなイメージ」と。また作品全体での神秘主義VS現場主義的な側面についても触れられていた。
 「作品の舞台が私立病院なのか公立病院なのか」という斉藤さんの面白い質問もあり、私立病院ではないかと返答があって、なぜその質問が出てきたかというと「私立病院ではチャーリーのような人物が登場してローカルな治療が行われうる」ということだった(ちなみに日本は精神病院は私立が多く、それが偏った現象につながる問題も指摘されていた)。
 文化による差も指摘され、多文化精神医学的な視点についての話題もあった(統合失調症発展途上国に多くないことや転帰もよいという報告がある)。「火星のような辺境の星で精神疾患の形態は実際どのようになるだろうか」という話題も出た。また宮内さんは「ヴァーチャルリアリティのキャラクターが『自分はヴァーチャル・リアリティの中のキャラクターなのではないか』と精神を病んでしまった場合、精神科医はどうすべきか」ということを考えたことがあると。
 あと他作品で言及されたのは『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』『花と機械とゲシタルト』(チャーリーの人物像に関連して)映画『地獄の黙示録』など(チェスタトンの名も挙がった記憶があるがどういう文脈か忘れた)。
 かなり年月を要し苦闘もあって(一時精神的に調子が悪くなったそう)仕上がった作品だということがよく分かり、専門家からの指摘も面白く、予想以上に精神医療の現在の幅広いお話を聞くことができて有意義なトークショーだった。